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3章 北へ プロローグ 安住の地へ
腰の下まである茶色の髪を揺らしながら、その男は目の前に聳える巨大な壁に手を掛けた。
計画が頓挫してしまうかもしれない今、もうこの手段しかないのだ。
自分の住んでいた村は魔物の襲撃時に壊滅は免れたが、それでも村に入り込んできた魔物の血走った目が、荒い息遣いが、目の前で亡くなっていく者の凄惨な状況が忘れられない。
襲撃から五ヵ月近く経つと言うのに、今でも夢に出てくるのだ。
自分を助ける為に覆いかぶさり安心させるように笑った母の顔が。「愛している」と言って事切れた父の顔が。「生きろ」と言った祖父の声が。
魔物のいないところに逃げたい、そう思った時にたまたま聞いた噂。
”北の奥地に魔物のいない人だけの楽園がある”
――と。
噂をしていた人達の顔も種族もよく覚えてないが、それでも男はその噂に縋りたかった。
身勝手だと言われてもいい。心の醜いやつだと罵られても良い。
安住の地で魔物に怯えることなく暮らせることが出来るのなら、どこでもいいとさえ思う。
その為にお金を稼ぎ旅費をこの一ヵ月貯めたのだ。それに賛同してくれた仲間もいる。魔物に怯えているのは自分だけではないと勇気を与えてくれた十二人の仲間だ。
「ここを超えたらもう戻れなくなってしまうよ」
仲間のうちの一人に言われて皆が振り返る。
「ここにいたっていつ魔物が来るか分からないんだぞ。俺は行く! 外が怖いと言うならお前だけここに残ればいい。さぁ、皆いくぞ!」
「「「おうっ!」」」
思い思いに仲間達が壁に手を掛ける。
「じゃあな」
まだ壁に登ろうとしない男に何か言われたが、それでも皆と協力して壁をよじ登る。想いはすでに北の奥地にあると言われている安住の地だ。
ふと横を見ると男が壁に手を掛け、ずり落ちながら登っているところだった。
「ぼ、ボクも行くよ。皆だけにしておけないよ」
「そうこなくっちゃな」
ほら、後少しだと他の仲間に促されて上を見据える。
ナーゼ砦の壁ははるかに高い。だが、誰がここから砦を出て行く者がいるだろうか。
ここはナーゼ砦の中でも貧困層が住む場所だ。ここなら絶対に見つかりはしないと言ったのは誰だったか。
壁の天辺まで登ってロープを垂らして降りればいいと教えてくれたのは誰だったか。もう覚えていない。
それでも仲間と共に怯えず暮らせる場所に行ける事が男は嬉しいのだ。その為だけに突き進む。仲間と共に力を合わせれば苦難をも乗り越えられると信じて。
***
そのロープが見つかったのはヴィヌワとキャリロの者数名が行方不明になってから三日経っての事だった。
貧民が住むスラム街。夜になれば犯罪を恐れてそこに住む住人は外に出ることは決してない。
油断していたと言えば、怠慢だと言われてしまうだろう。砦内の警備を任されている警備隊の総隊長としては頭の痛い話だ。
「行方不明者は全部で何人になる」
「報告によりますと、ヴィヌワ九名、キャリロ四名の総勢十三名です」
「十三人もか……内訳は?」
「ヴィヌワはス村の者四名、ナ村の者一名、ワ村の者一名、メ村の者三名、キャリロはサザ村の者が三名、カテ村の者が一名です」
「まったく、こんな時に……。本当に頭の痛い話だな。それでなくても今は忙しいと言うのに」
「本当ですね。でも、隊長のんびりしてる暇はありませんよ」
首を横に振り眉間を揉むと目の前の机に置かれてあるカップを手に取った。が、飲み干してしまったのか中身は無かった。
「どういたしますか?」
「ほっとく訳にもいかんだろ。調査隊と第一兵団に連絡を入れてくれ。あ、それからヴィヌワとキャリロの代表と話をしなければならないだろうから代表者に連絡を」
「分かりました」
部下が出て行った扉を見て溜息を吐く。壁を越えて砦から出て行く者がいると誰が予想できるだろうか。
休む暇もなく働いていると言うのに、神様はまだまだ働けと言っているらしい。
「はぁ……引退したい」
深く椅子に座りぽつりと呟く。頭をがしがしと掻き毟ると机に手をつけ勢いをつけて椅子から立ち上がった。
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