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その2

 一条晴輝のファーストツアー「歌うたい」は、七月一日の札幌からスタートし、十月二十四日の東京公演で最終日を迎えることになっていた。小さめの会場を、全国津々浦々という感じで回る。  視覚障害者でありながらキーボードを弾きこなし、作詞作曲もする「全盲のシンガー」は、去年の六月、セカンドシングル発売にあわせて、ある深夜の音楽番組で特集された。  それをきっかけに晴輝は世間に注目されるようになり、その騒ぎの中で出したファーストアルバムは爆発的に売れた。今年五月にリリースしたセカンドアルバム「歌うたい」も、発売から一週間もしないうちに五十万枚以上の売り上げを記録。いよいよファン待望のファーストツアーが始まる。  と、俺は仲のいいパートのおばちゃんに聞いた。  ツアー初日前日の今日は、いったん事務所に集合し、そこから車で羽田空港に向かうことになっている。俺は大きなスポーツバッグを持って、集合時間の少し前にリアルミュージックにやってきた。 「おはようございます、村上です」  嵐に遭った後のようなオフィスの入り口で、誰にともなく声をかける。数人いる社員は誰もがばたばたしていて、俺にかまう余裕はなさそうだ。  仕方なく立って待っていると、なにかが後ろから何度も足元をつついてくる。 「あれ? 誰かいる?」  声と同時に、そのなにかの正体に気づいて振り返る。色の濃いサングラスをかけ、Tシャツにジーンズ姿の晴輝がいた。手にした杖で、障害物の正体を探ろうとしてたらしい。 「すみません、村上です」 「ああ、おはよう静也。タメ口でいいって言ったじゃん」  俺は改めて、じっと杖を注視した。視覚障害者が一人で歩くには白杖が頼りで、杖を通して伝わる感触や音でいろいろな情報を得ているらしい。って、もちろんこれも、パートさんのワイドショーからの受け売り。 「ごめんなさい、待たせちゃって。晴輝、荷物は?」  ずっと電話していた大石さんが、オフィスの奥から抜け出してきた。 「車に積んでもらったよ」 「そう、じゃあ行きましょ」  大石さんはそう言って晴輝の腕を取りかけて、 「あっ、今日から村上君の仕事だったわね」 と言うと、飛び跳ねるように晴輝の左を俺に譲った。 「手引き、早く慣れてもらわないと」 「あ、そう、ですね……」  もう仕事は始まってるんだ、と思うと少し緊張してきた。でも大丈夫だ、こんなの簡単だよ、きっと。  俺は晴輝に右肘の少し上をつかまれ、エレベーターへと歩き出した。歩き出してすぐ、いきなりきつく腕をつかまれて立ち止まる。 「もうちょっとゆっくり歩けよ、ついてけないじゃん」  立ち止まると、晴輝はつかんでた手の力を緩めて明るく言ったけど、一瞬ぎゅっと腕を握りしめた力の強さが緊張を伝えていた。 「すみません」  思わず速攻で謝った。俺としてはゆっくり歩いたつもりだったんだけど……。  晴輝はふわふわと楽しげに笑い、俺の腕にぽんぽんふれる。 「だから、タメ口でいいって言ってるじゃん。きっと、背が高いから歩幅も広いんだな。頼りにしてるよ」  一緒に歩くだけでもかなり気を遣う。気を引き締めないとヤバイか。  車で送ってくれた事務所のスタッフと空港の搭乗口で別れ、俺と晴輝、大石さんの三人で北海道に向かう。  たった三人の移動にびっくりして思わず大石さんに聞くと、会場設営は現地スタッフ任せで、照明や音響のスタッフは先発、二人いるサポートミュージシャンは他に仕事があって、今日の夜には札幌入りすることになっているらしい。  これから回る都市のうまい店や名物、晴輝をサポートする二人のこと、業界の裏話。  新入りの俺にいろいろ教えようというわけで、面白おかしく話して聞かせる大石さんと晴輝は、まだ知りあって一年半ぐらいらしいのに、親子みたいだ。  通路側の席に座った俺は、きれいすぎて作り物のようにさえ思える雲一つない空を、隣の二人越しにぼんやり見ていた。  この空みたいに、現実感がない。俺が今日から、超人気アーティストの警護だなんて。 「なあ、静也」  晴輝の声に顔を向ける。大石さんと晴輝の会話が途切れたと思ったら、大石さんは眠ってしまったらしい。 「……なんですか?」 「俺、ただ目見えないだけだから、あんま気にしないで。俺の気のせいかも知れないけど、ずっと遠慮してるみたいだったからさ」  ただ目が見えないだけ。晴輝はそう言うけど、目が見えなかったらさっきみたいに歩くのも怖くて、なにをするにも危なっかしいじゃないか。 「特別扱いは嫌なんだ。普通に、友達みたいにつきあってくれよな」  晴輝はそう言って、はにかむような笑顔を見せた。  そんなこと言ったって、これは一応仕事なんだし、あまりに唐突で、晴輝自身の要求でも違和感あるよ、やっぱ。 「ところで静也って、顔どんな感じ? たくましい身体してんのは腕つかんで分かったんだけど」  無邪気に訊いてくる。またいきなり、聞きたい気持ちも分からなくないけど、どう説明したらいいんだ? 「ほらまた困ってる、普通に見えるまんま教えてくれればいいんだって」 「そうですね……、髪は短くして立ててます。色黒で、眉毛は太くて……。気が強そうな顔だってよく言われますね」  仕方なく答えると、晴輝は身を乗り出してきた。 「かっこいいの?」  ちょうど目を覚ました大石さんと、晴輝の肩越しに目があう。 「かっこいいよ。男らしくてキリッとした顔してる。私があと十歳若ければ、アタックしてたわね」  すかさず大石さんが、いたずらっぽい目で俺を見て言う。じっと見つめて笑いかけてくる大石さんに、俺はつい目をそらしてしまった。  晴輝はあはは、と笑って、 「そっか、じゃあ見た目もよくてボディーガードとして最適じゃん。身体鍛えてんの?」 「そうですね、柔道、サッカー、水泳、スポーツはいろいろやりました」  俺はなごやかな雰囲気についていけず、真面目に答える。 「タメ口タメ口、仲よくしようぜ」  明るく笑う晴輝にも、俺はあいまいに返事をした。  空港の到着ゲートには、現地でのいっさいの世話をするイベンターさんが迎えに来ているという。到着ゲートを出るなり、大石さんの顔がこわばる。 「もう、なんだってあんなに大勢で……」  つぶやき、駆け出す大石さん。  ぎょっとした。太った中年男のそばに、スーツ姿の若い男が十人近く、固まって立っている。中年男がイベンターさんで、他は大学生のバイトだろう。カバンも持たないその集団は、やたらと目立つ。  俺は大石さんが厳しい顔でその集団に近づいていくのを、ぼんやり見ていた。そこにいきなりの歓声。とっさに身構える。  そして気づく。もしなにかあった時、晴輝に利き手の右腕をつかまれてたら、対応が遅れかねない。うかつだった、これしきの事にも思い至らないなんて。  ファンらしき女の子達が晴輝を呼ぶ声が重なりあう。近づいてくるいくつもの足音と、ふわりと漂ってくるコロンかなにかの甘い匂い。晴輝は明るい笑顔でそれに応じた。 「晴輝、これプレゼント!」 「握手して下さい!」  晴輝のそばにいるのが俺一人だと分かったからか、急に勢いづいて殺到してこようとする女の子達。若い女の子ばかりなだけに、乱暴に押しとどめるわけにもいかない。  俺はとまどい、汗をかきながらぎこちなくファンをさばいた。イベンターさんに率いられたスーツの集団が、すごい勢いでこっちに向かってくる。 「離れて下さい!」  突然ロビーに響く声。晴輝に群がっていた女の子達は、さあっと波が引くように、夢見心地の顔のまま道をあける。 「やはり、北海道にいる間の移動は、厳重な警備のもとに行った方が安全だと思うんですが。関係者出入り口を使わせてもらってもよかったでしょうに」  歩きながら、固い表情で言うイベンターさん。晴輝は自分を取り囲むスーツ集団の気配に、おどおどと首をめぐらせる。俺の腕をつかむ指に、痛いぐらいに力がこもる。 「そうは言っても、こんなんじゃ逆に目立っちゃうじゃない、大げさなのはやめてって言ったでしょう」  大石さんの言うとおり、まとまった足音が俺達を囲んでいるせいで飛んでくる、遠慮のない視線が痛い。 「でも、事故が起こってからじゃ遅いでしょう? 大石さん、お願いしますよ」 「晴輝は目が不自由なだけなのよ、何度言ったら分かってもらえるの? そのためにちゃんとボディーガードもついてるんだから、こんなに人は要らないのよ」  大石さんはかなり怒ってる。俺にはその理由がよく分からない。でも、「そのためにちゃんとボディーガードもついてる」という言葉が、耳に痛くて、少し申し訳なくなる。 「いいんじゃない、別に目立っちゃっても」  唐突に晴輝は顔を上げ、冗談ぽく言った。 「ここで言うこと聞かないでなんかあっても、うちの事務所にそれを埋められるような金ないでしょ?」 「まあ、晴輝がそう言うなら……」  大石さんは険しい表情で、それっきり黙った。悔しさを拭いきれない、って感じだ。  晴輝も黙ってしまい、気まずい空気を変えようとイベンターさんは俺に話しかけてくる。それに仕方なく答えながら、俺は内心ため息をかみ殺した。

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