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その3

 空港から車で、会場の下見に直行する。リハーサル前にも実際にステージに立ってみて、念には念を、ということらしい。  会場に入ると、すでにステージにはセットが組まれ、ツアーTシャツを着たスタッフが動き回っている。  セットと言ってもごくシンプルだ。ツアーのロゴがデザインされた幕が奥に下がっている以外は、晴輝の立ち位置が少し高くなっているだけ。ステージのセンターに晴輝が弾くキーボード。その後ろ、客席から見て左寄りにドラムセットがあり、晴輝の右側にギタリストが立つらしい。  晴輝はまず楽屋からステージまでの行き方を確認すると、ステージの袖から自分のキーボードまで伸びている点字ブロックみたいな敷物の上を歩き、距離感を確かめ始めた。 「音はまだ出せないの?」 「まだです、すみません!」  誰にともなく言った晴輝に、客席にいたスタッフが大声で返す。ぼんやり見ていると、やがて晴輝はゆっくりと、キーボードの前に座った。本番をイメージしているのか、キーボードに両手を乗せて、動く気配がない。  俺の隣で、大石さんは本当に優しくて柔らかな表情で、晴輝を見守る。完全に母親の顔だ。俺の視線に気づいて、大石さんはかわいらしく肩をすくめた。 「晴輝をデビューさせるのは結構大変だったのよ。でもこんな優しい歌、世間に知られないなんて悔しいじゃない。ねえ?」 「……そうですね」  同意を求められて、一応返事はした。晴輝の歌は優しい。それは音楽に興味がない俺にも分かる。 「まだまだ手引きにも慣れないと思うし、ずっとイベント警備やってきた村上君に、完璧な仕事を求めるつもりはないの。だから気を楽にして、とにかく晴輝をよろしくね」  完璧な仕事を求めるつもりはない? 俺に期待してないって言ってんのか? じゃあ俺はなんのためにいるんだろう。お互い、専門の警備員じゃないことは同意の上のはずだろ? 「どう、晴輝? 感覚はつかめた?」  少し怒りが混じった困惑が身体を覆う。そんな俺に気づくふうもなく、大石さんは袖に戻って来た晴輝の肩を抱くようにして迎える。 「うん、あとは明日のリハで。大石さん、翔一郎さんと隆宣はもう着いたかな?」 「着いた頃じゃない? みんなでおいしい物食べに行きましょ」  翔一郎さんはサポートのギタリスト、隆宣さんはドラマーだ。隆宣さんが翔一郎さんの世話を焼いてるところは、親子っていうより夫婦、らしい。  大石さんは車の中で二人に連絡して、すすきのの居酒屋で落ちあうことにした。通された個室で、部屋に入るなり思わず立ち止まってしまう。さすがギョーカイ人、って言うべきか? 「なんだよ、急に止まるなよ」 「あ、ごめん……」  俺は呆然と、目の前に立ってる隆宣さんらしき人を眺めた。  悔しいぐらいにかっこいい。ゆるくウエーブがかった、肩にちょっとかかる程度の金髪が、白い肌に映える。華奢なフレームのメガネをかけた顔は、よく整って鼻も高い。身長もそこそこある。モデルだとか言っても、たぶん誰も疑わないだろう。 「村上静也君だね?」  ぼーっとしかけたところに、柔らかくておっとりした声。あわてて返事をして声の主を見る。 「椎名翔一郎です、よろしく」  ひょろりと背が高い、たれ目がちの笑顔。目線が俺とあんまり変わらないってことは、身長は百八十センチ前後ってとこか。  差し出された手を握ると、指はごつごつして、すげえ細くて長かった。確か年は、四十三歳って言ってたな。 「はじめまして、土井隆宣です」  翔一郎さんに続いて差し出された手を、俺は少し気おくれしながら握った。隆宣さんは俺の一つ上らしいけど、とてもそうは見えない落ち着きぶりだ。  翔一郎さんはいかにも人がよさそうで、公園で子供と遊ぶのがすごく絵になりそうな人だ。反対に隆宣さんは、見るからにクールで、他人の世話なんか焼かなそうだけどな。  にこにこと晴輝の相手をする翔一郎さんの隣で、隆宣さんは静かに飲んで、二人の話に時々少し笑う。飲みながらさりげなく、翔一郎さんに料理を取り分けてあげたり、飲み物がなくなりそうになったらオーダーしてあげたりと、しっかり世話役に回ってる。 「翔一郎さんと隆宣さんって、話に聞いた通りの仲ですね」  それとなく観察した結果、ジョッキを口にしたまま俺はつぶやいていた。 「俺の趣味は翔一郎さんの世話だから」  真顔で、細く整った眉も動かさずに言う隆宣さん。 「ね、そうなのよ。私は、翔ちゃんにいっそ隆宣君を嫁にもらったら、って言ってるんだけどねえ」  ほろ酔いの大石さんが陽気に笑う。だけど、さっきのステージ袖での大石さんの言葉が引っかかって、リアクションできない。 「いや本当に、隆宣にはなにからなにまで頭が上がんないよ」  翔一郎さんは恥ずかしそうに頭をかく。 「静也、隆宣ってすごいんだよ。ドラマーになるか料理人になるか悩んで音楽選んだってくらい料理が得意で、翔一郎さんにもよくいろいろ作ってあげてるって」  そう言いながら、ジョッキを手にしたままテーブルにくにゃりともたれる晴輝。 「晴輝、あんまり飲んじゃだめよ」  大石さんが晴輝をたしなめる横で、翔一郎さんが赤い顔で隆宣さんの肩を抱く。 「そうそう、隆宣の料理は最高だよ。特に中華やケーキがうまいんだ」 「ケーキ!?」  思わず本気で驚く。隆宣さんは肩を抱かれたまま、ゆったり微笑んだ。かっこよくて料理はプロ並みでよく気がきくドラマー……。なんかムカつくな。 「いいよなあ、隆宣はなんでもできて。もし音楽やめても料理の仕事できるもんなあ。俺なんかなんにも……」 「ちょっ、あぶな……」  椅子から転げ落ちそうになる晴輝の身体を、あわてて受け止める。 「こら、晴輝! しっかりしなさい!」  大石さんが叱っても、晴輝は動かない。身体を支え起こすと、苦しそうに眉をしかめていた。 「大丈夫ですか? 吐くんならトイレに」 「大丈夫。ごめんな、静也」  晴輝はつらさが残る笑顔で言い、またビールに手を伸ばそうとする。 「晴輝、今日はもう帰って休もう」  大石さんが厳しい顔で、さっと晴輝のジョッキを奪う。 「なんで? みんなまだ飲みたいでしょ?」 「明日は初日なのよ。万全の体調で臨んでもらわないと」  晴輝はしばらくむっとした顔で黙ってたけど、いきなり大声で、 「分かった、分かりました。マネージャー様のおっしゃる通りにします!」 と言い、ゆらりと立ち上がった。 「ほら、帰るぞ静也! ボディーガード様、手をお貸し下さいな、ってね」  けらけら笑ってよろめく晴輝を、俺は急いで立ち上がって支えた。テーブルの上の物をこぼされたり壊されたりしたら、たまったもんじゃない。 「さ、ホテルに帰ろう、ハル」  なだめるように言う翔一郎さんの笑顔は、あくまでも優しい。二人で晴輝を支えて、店の外に連れ出す。晴輝はまだなんかぶつぶつ言ってたけど、酔うと眠くなるらしくて、くったりと俺に身体を預けて静かになった。  やれやれ、ビール何杯か飲んだだけでこんなに酔えるなんて、幸せなヤツだよな。 「……初日から揉めたんじゃ、ハルが荒れたくなるのも無理ないよ」  ぼそりとつぶやく翔一郎さん。 「え?」  荒れてた? 俺にははしゃいだあげくに、飲み過ぎたようにしか見えなかったけど……。 「情けないね」  自分に言われたようで、思わず翔一郎さんを見つめる。翔一郎さんは穏やかに微笑み、ちょっと首をかしげた。 「どうしたの、早くホテルに帰ろう」 「あ、は、はい」  晴輝を二人がかりでタクシーに乗せ、ホテルに向かう。  情けないって、なにがだ?

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