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その6
九州から帰ると、次の公演までは二週間ぐらい空く。その間俺は、あくまで晴輝の警護がメインだから、会社にはツアー中の報告書作りや手伝い程度に出るくらいで、のんびりしていた。
晴輝の話を聞こうと無理やり飲みに連れ出されそうになったり、誰に聞いたのか、普段めったに電話をよこさないヤツまで、電話をかけてくる。そんな友達のミーハー根性にいちいちつきあうのが面倒で、今では電話やメールもほぼ無視。
もともとつきあいがいい方じゃない。守秘義務だってあるし、何度も同じ話を自慢げに話すなんてしたくない。それに会う人全員がそうだとは言わないけど、芸能レポーターみたいになるヤツもいて、嫌だった。
冷房をきかせた部屋に突然鳴り響く、携帯電話の着信音。また誰かからの誘いかも知れない、そう思いながら画面を見ると、見知らぬ番号。
無視しようと思ったけど、携帯はいつまでも鳴ってる。迷ったあげく、俺は電話に出てみた。
「あ、静也? 俺、晴輝だけど」
耳に飛びこんできたのは、間違いなく晴輝の声。
なんで晴輝が俺の携帯の番号を知ってるんだ? なんで急に電話なんかかけてくんだ?
軽い動揺と混乱を隠してなんの用か聞くと、
「翔一郎さんのライブ行かない?」
と弾んだ声で返された。
「は? 翔一郎さんの?」
そう言えば、翔一郎さんが時々小さなライブハウスでライブやってるっていう話を、聞いたような気もする。
俺はぼんやり晴輝の言うのを聞いていた。晴輝の声の背後がにぎやかだ。事務所にいるのか。ということは、大石さんにでも電話をかけてもらったのか。
「今日これから、渋谷のライブハウスであるんだよ。隆宣の車に乗せてもらって行くことになってるから、駅前にいてもらえば拾ってもらうからさ」
「え、今日? いきなり今からって言われても……」
まくしたてられて困惑気味に答えると、酒おごるから行こう、絶対来て損はないって、となんだかんだセールストークのように浴びせられた。
一方的に時間を決められて電話を切られて、晴輝の強引さに思わず苦笑。仕方なく出かける準備をし、電車に乗って渋谷へ。時間に少し遅れて言われた場所に行くと、そこにはワゴン車が止まっていた。
「やあ、いきなり呼び出されて迷惑じゃなかったかい?」
スモークが貼られてる助手席の窓が開いて、翔一郎さんのいつものゆったりとした笑顔が現れる。
「いえ、そんなことないです」
答えながら顔の汗をぬぐう。
「ごめんな、来てくれてありがとう。暑いだろ、早く乗りなよ」
翔一郎さんの肩ごしに、後部座席の晴輝が言う。その後ろにギターケースや、使いこまれた黒の頑丈そうな機材ケースがいくつも積んである。
運転席の隆宣さんは、静かに俺達のやりとりを見てる。その顔を見るだけで、なんだか涼しく感じるほどの落ち着きぶりだ。
「あれ、足どうしたの?」
車に乗りこむ時、晴輝のサンダル履きの足に白い包帯が巻かれてるのが見えた。
「家でそうめん茹でてたらこぼしちゃったんだよ。ヤケドしちゃうし、どこにどんなふうにこぼしたのか分からなくてさ。片づけるのに苦労したよ」
晴輝はそう言って肩をすくめた。
「うわ、大丈夫? 一人暮らしだっけ?」
「うん、学校出てからはずっと一人暮らししてる。こんな大失敗、最近はなかったのに」
目が見えないのに一人暮らしで、料理もするなんて信じられない。人気シンガーなんだから、手厚くケアされて、危ないこともしないようにさせられてるんだと思ってた。
だけどそれは、ただ目が見えないだけ、特別扱いは嫌だ。そう言っていた晴輝と、過剰な警備に怒った大石さんを思えば、ごく当然なのかも知れない。
「家族は遠い所にいるんだろ? 心配だなあ、ハルも早く彼女作ったらどうだ?」
ふいに助手席の翔一郎さんが言う。
車はのろのろとしか動けずにいて、ごったがえす歩道を歩く人達は、みんな暑さに不機嫌な顔でワゴンの脇を通り過ぎていく。
「翔一郎さんは? 人のこと言えないんじゃない?」
からかうような、甘えるような口調で晴輝が言うと、隆宣さんも横目で翔一郎さんの反応をうかがう。
「俺はもういいんだよ……」
翔一郎さんはようやく聞こえるくらいの小声で言った。
「よくないですよ」
すかさず、隆宣さんのツッコミ。
「今のままで充分だよ、別にさみしい思いもしてないし、仕事は順調だし……」
翔一郎さんはぶつぶつ言いながら顔を赤くして、うつむいてしまった。いい年した大人が、これだけのことで本気で照れてる。憎めない人だよなあ。
「それに美形の世話女房もいるから?」
「からかわないでくれよ」
翔一郎さんは振り返って晴輝の頭を軽くこづいた。
「だって本当のことじゃん」
こづかれても晴輝はにこにこしている。
「そうですよね、俺がいますもんね。今さら誰かと結婚なんてないですよね」
「え、あ……いや……」
さらりと言ってのける隆宣さんに、しどろもどろの翔一郎さん。明らかにいじめて楽しんでる。
そんなたわいもないやりとりをしているうちに、ワゴンは今日のライブ会場らしい建物の前に止まった。
「ごめんな、営業外なのは後で酒おごって埋めあわせするからさ。手引きしてもらえないかな?」
福岡以来、俺はあくまで言われた範囲内でしか仕事をしない、これまでの自分を改めた。そうするのが遅すぎたかも知れないけど、本を読んで勉強もして、いくらか手引きにも自信が持てるようになっていた。
晴輝が車に頭をぶつけないように、腕を車の窓枠に添える。白杖を準備し終えるのを見届けて、誘導するためにそっと晴輝の左腕に触れる。晴輝が俺の腕をつかむのを待って歩き出す。
「階段だよ」
いったん立ち止まって声をかけてから、ひっそりとして狭い地下へ続く短い階段を、晴輝の先に立ってゆっくりと下りた。
「今ドア開けるから」
言いながら、いろんなステッカーがべたべた貼られた重い扉を開けて中に入る。
中も狭い。正面のステージは、五人も立てばいっぱいだろう。その脇、右奥にささやかなドリンクのカウンター。フロアには古びた木の丸テーブルが六個。それぞれのテーブルには椅子が四脚ずつセットされてる。その後ろ、今俺達が立ってる場所は、立つ人のためか広めに空いてるけど、入れてせいぜい三十人ってとこか。
薄暗い中で、ステージを真上から照らすライトがやけにまぶしい。使いこまれた木のテーブルと椅子が、光を反射してつややかに光っている。
晴輝がツアーで使う会場は、小さいとは言っても五百人前後は入る所が多い。いつもそういう所で演奏してる人達がこんな狭い所でもやるのが、俺にはちょっと意外だ。
「ごめんな、楽屋狭いからここにいて」
翔一郎さんに言われて、俺は一番左端のテーブルに晴輝を誘導した。椅子を引いて座るように促し、晴輝がちゃんと座ったのを見て、俺も隣に座る。
煙草を吸いながら、ライブの準備が整えられるのを眺めた。忙しそうに出たり入ったりするスタッフらしき人達。それ以外にも、ちらほら人が出入りし始めた。
晴輝は黙って座っている。うっすら笑みが浮かんだ表情が、ステージを照らすライトで縁取られる。その顔は、周りから聞こえてくる音を、楽しんでいるようにも見えた。
俺はホテルのバーで見た、晴輝のせつない背中を思い出していた。いったいなにがあんなに晴輝を落ちこませていたのか。思わず晴輝を見つめる。
次の日の晴輝はいつもの明るさで、バーで見たことが夢のようだった。それだけにあの夜の晴輝は、強烈に俺の中に残っている。
隆宣さんが出てきて、ドラムセットを前に座った。少し遅れて、翔一郎さんや他のメンバーも出てくる。
「もうリハ始まりそう?」
いきなり晴輝が言う。翔一郎さんがエレキギターをつかんだのが見えてるかのような、絶妙なタイミング。
「あ……う、うん」
ドキッとした。晴輝は見えてる俺なんかよりもずっと敏感に、空気を読んでるのかも知れない。
「翔一郎さん、かっこいいよなあ……」
気持ちよさそうに瞳を細め、翔一郎さん達の演奏を聴きながらつぶやく晴輝。
翔一郎さんが歌う。もともとしゃべる声も穏やかだけど、歌声はもっと低くて柔らかくて、しっとりしてる。
「すごく優しい声だね」
高く清く透き通る晴輝の声が風なら、翔一郎さんの声は土のぬくもり。俺にはそんな気がした。
「翔一郎さんって、昔バンドのボーカリスト兼ギタリストでデビューしてるんだよ」
ごつん、と音を立て、演奏に負けないように俺に近づいて言おうとした晴輝の頭が、俺のあごにぶつかる。
「あ、ごめん」
柔らかくてさらりとした髪の感触が、あごに残る。ひどいくせがあるせいで短髪にするしかない俺からすると、うらやましいぐらい素直そうな髪だ。
俺はまた煙草を取り出そうとして、やめた。代わりに、カバンに入れてたペットボトルを取り出して飲む。
「でも売れなかったんだよ。もったいない。才能も実力も大事だけど、それだけで売れる世界じゃないんだ」
晴輝はそう言うと、テーブルに頬杖をついた。俺はただうなるような返事をして、ペットボトルのキャップを閉める。
「俺だってさ、不本意だけど全盲だってことばっか取り上げられてるじゃん。普通に目が見えてたら、全然売れなかったかも知れない。取材に来る人達だって、どこまで本気で俺のこと誉めてるのか、分かったもんじゃない」
泣き出す寸前なのを我慢して微笑んでる、そんなこらえる表情。ホテルのバーで見たのと、似ていた。
「だけど、翔一郎さんには別にそんなこと関係ない。ただとにかく、音楽が好きだから、やる。俺もそうしたいけど、なかなかできないんだよね」
俺はなにも言わなかった。いや、言えなかった。あんなにも暗い背中や切実な表情を見てしまったら、簡単に慰めることなんかできない。
「静也、俺と一緒に歩くの嫌だろ」
じっと黙ったままでいると、晴輝は言った。
「分かるんだよ、雰囲気で。見えない代わりに肌でいろんなことが分かるんだ」
やわらかな笑顔。ライトの光に輝く瞳。本当に見えてないんだろうか、と何度も思ってきたことをまた思ってしまう。
だけどそれは晴輝に失礼なんだと、今は分かる。
「でも静也が嫌なのは、俺と歩くとじろじろ見られるとか、ファンがうるさいとか、そういうんじゃないな」
「……その通りだよ」
バンドの演奏に紛れこませるように小さくつぶやく。
「なんて言うのかな、すごく葛藤してるような感じがしたんだ」
鋭い。もしかしたら晴輝は、最初俺がこの仕事を嫌がって、適当にやってたことにも気づいていたのかも知れない。俺の気持ちの変化さえも、態度や気配で読んでたのかも知れない。
演奏がやんだ。翔一郎さん達は最後の確認をしてるようで、ちょっと演奏してはやめたりしている。真剣で、同時に楽しそうで、さっきの晴輝の言葉がダブった。
「静也がなに思ってるか分かんないけどさ、俺は信じないことには始まんないと思ってるんだ。目の前の人達が喜んでくれてるのを信じて歌う。人の言葉を信じる。こんだけたくさんの人がいて、頼れるのも人だけだし。信じる者は救われる、じゃないけどさ」
俺はしなやかな晴輝の笑顔に瞳を細めた。心の中でなにかが溶けていく、そんな気がしながら。この笑顔が、仮面じゃなく、心からのものであることを願いながら。
「晴輝はなんで、音楽が好きなの?」
訊くと、晴輝の笑顔がますます深くなる。
「生まれる前から、好きだったみたいだよ」
なんだか、胸が痛い。これは仮面だと、俺の直感が告げているのか。
「答えになってない気がするんだけど……」
「そっか、そうだね、ごめん」
晴輝の笑顔の明るさが、かなしい。今まで知らなかった一面を見たぐらいで、分かったような気になってるなんて、とも思う。だけどやっぱり、かなしいものはかなしい。
晴輝の笑顔の前になにも言えずにいると、視界の隅でなにかが動く。翔一郎さんだった。
「ハル、静也君、もうすぐ開場だからいったん楽屋に移動した方がいい。隆宣が作ってきてくれたケーキもあるし」
翔一郎さんはステージ脇の黒いカーテンから顔を出してそれだけ言うと、カーテンの裏に消えた。
楽屋に入る。客席にあるのと同じテーブルが一つ。男ばかりがひしめいてるんだから、狭さは格別だ。床は荷物で足の踏み場もない。
そんな楽屋のテーブルの上に広げられてる、のどかな光景。紙皿の上のケーキ、紙コップに注がれたミルクティーの甘い匂い。このミルクティーも、紅茶好きな翔一郎さんのために、隆宣さんがポットに作ってきたらしい。
渡されてしぶしぶ、シフォンケーキを食べる。さらりと口の中で溶けるのを、驚きとともに飲みこんだ。これなら、金取ったって間違いなく文句は出ない。
客が入ってきて、客席の方がざわめき始めた。そのざわめきを聞きながら、のんびり幸せそうに紅茶を飲む翔一郎さん。
隆宣さんだけがケーキを食べず、楽屋の隅にいる。うっすら微笑んだ瞳で、食べる俺達を見てる。使いこんだドラムスティックで、リズミカルに太ももをたたきながら。
手作りケーキこそないけど、晴輝のツアーの楽屋でも、隆宣さんと翔一郎さんはいつもこんな感じだ。
「隆宣さんは食べないんですか?」
「俺はいいんだ、みんながおいしそうに食べてくれれば、それで」
隆宣さんの視線の先には、ゆったり満たされた表情の、翔一郎さんの横顔。手元のケーキと隆宣さん、それに翔一郎さんを、俺は思わず交互に見ずにはいられなかった。
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