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その8

 また旅に出た。今度のは、浜松から広島まで、約三週間の長旅だ。  浜松の楽屋。開演十分前。緊張した空気が満ちている。  晴輝は大石さんから衣装や髪型の最終チェックを受けている。きゅっと結んだ唇。小柄な身体にまとってる緊張と気迫。 「さ、じゃあそろそろ行くわよ」  大石さんが晴輝の肩をたたく。 「あの、今日からは俺が」  待ち構えていた言葉にすかさず飛びつく。大石さんは俺を見て、ゆったり微笑んだ。 「そうね、じゃあお願いしよっかな」  俺は大石さんが譲ってくれた、晴輝の左側に立った。 「頼むよ、静也」  そう言って笑った晴輝の笑顔はぎこちなくて、俺の腕をつかむ手には力がこもっていた。 「緊張してんな」  ステージへと歩き出しながらささやくと、 「ああ、いつも開演前は怖い」  晴輝はまっすぐ前を向いたまま、硬い声でつぶやく。  晴輝が歩くたび、かつかつと乾いた靴音が狭い廊下に響く。鼓動とリンクしてるのか、だんだん靴音が刻むリズムが早くなる。 「なんで? 信じないことには始まんないって言ってたじゃん」  晴輝は俺の言葉にはっとしたようだった。靴音のリズムが一瞬、止まった。 「客のこともスタッフのことも、みんな信じてれば怖くなんかないはずだろ?」  数瞬の間。晴輝が大きく息を吐く。 「……そっか。そうだな」  俺の腕をつかんでる手から、力が抜ける。 「静也の言う通りだ、もっと楽にいくよ」  ステージに立たない俺には、晴輝の恐怖もプレッシャーも、全部理解するのは無理だ。だから俺の言葉なんかなんの役にも立たないかも知れないけど、俺はとにかく晴輝を応援したいと思う。 「ねえ、いったい歩きながら晴輝になにを言ってたの?」  ステージの袖で三人を送り出した後、大石さんが俺の背中をつついてきた。 「……みんなを信じろって」 「そう、ありがとう」  大石さんは俺をまっすぐに見て、きれいに笑った。唐突な言葉にリアクションできず、なんだか恥ずかしくて、無言で晴輝の背中に視線を戻す。  客電が消え、歓声があがる。幕が上がった途端、一気に膨張する歓声。まるで風船だ。でも割れた後も興奮は膨張し続け、そんな熱狂の中心で、晴輝が微笑む。  今まで何度も見てきた光景が、今日はなんだか自分のことのように誇らしい。うれしい。 「晴輝が最初からこんな堂々としてるの、初めてだわ。村上君の言葉で吹っ切れたのかもね」  ステージを見つめたまま、大石さんは感心したように言う。でも俺は単に、疑問を思ったまま口にしただけなんだけど……。 「やっぱり村上君みたいな同年代の友達が、晴輝には必要なんだろうな。仲よくしてあげてね」  満面の笑みで見上げられ、俺は今こそ訊いてみるべきだと思った。 「あの、晴輝って昔なんかあったんでしょうか。大石さんは聞いてませんか?」  あまりに不器用に切りこんでしまった俺に、途端に大石さんの顔からすっと笑顔が消えた。真摯な視線を晴輝に向ける。 「なにかあったのは、間違いないでしょうね。私と知りあってから今までだって、いろいろあったんだから」  ステージを照らす色とりどりのライトが、袖からステージを見つめる俺達を照らしては消える。なんか人生みたいだな、とうっすら思う。 「私が知ってるのは、晴輝がああ見えて友達少ないらしいのと、ご家族とわだかまりがあるらしいってことだけ。デビュー前にご両親にご挨拶に行こうとしたら、連絡を取ることすら晴輝に止められちゃって」  大石さんですら、晴輝の過去を詳しくは知らない。それが俺を、呆然とさせる。  俺の視線の先には、明るくテンポのいい曲を軽く踊りながら歌う晴輝。 「でも私は、言う言わない、知る知らないは大したことじゃないと思う。結局、本人の心の問題でしょう?」  思わず、大石さんの顔を見つめた。福岡のホテルのバーで、いかにもせつなげに晴輝を慰めてた人の言葉とは思えない強さ。 「だけど村上君の言葉は、すぐ晴輝に受け入れられた。私達はつい上から目線で物を言いがちだから、どうかこれからも晴輝をよろしくね」  俺は力強くうなずいた。笑顔でうなずき返して、袖から立ち去る大石さん。  一曲終わり、大きな拍手が俺を乱暴に撫でていく。  俺にはとても、こんなに大勢の人の拍手を受けるなんて芸当はできない。  でもその代わり、もっと晴輝のことを知って、いろんなことを勉強して、ツアー最終日まで、しっかりと晴輝を支えたい。守りたい。  晴輝が、世の中のいろんな物事を信じて歌っていけるように。

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