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その9
疲れた。本当に疲れた。あれが大阪人パワーってやつなのか?
俺はぐったりして、ホテルのベッドにスーツのまま寝転がっていた。
新大阪駅のホームに降りた瞬間から、戦場に放りこまれた。群がる出迎えのファンは、実際の人数の二倍も三倍もいるように感じるくらい、みんなやかましくて元気だった。さすがの晴輝も、ファンのパワーに笑顔がとまどってた。
まあなんとか、晴輝を危ない目にあわさずに移動できてよかったけど、気張りつめっぱなしで三日分の疲れが一気にきたような感じだ。
コンコン、コンコン。
ノックの音……? 誰だよ、俺は眠いんだよ……。いいよ、無視無視。寝ちまおう……。
「静也、いないの? 寝たあ?」
って、この声は晴輝じゃないか!
俺はあわてて起き上がり、よろけながらドアに向かった。ホテルのセキュリティはしっかりしてるはずだけど、晴輝が一人で廊下に立ってるとこを、ファンに見つからないとも限らない。
乱暴にドアを開けると、晴輝が首をかしげた。
「なにドタバタしてんの? もしかして起こした?」
酒くさい。酒弱いくせに、そんなのんきに酔っ払ってんなよ……。
「とりあえず入って」
ため息をかみ殺し、紙袋をぶらさげてる晴輝を中に入れる。
「あれ、まだ着替えてないの?」
俺の腕をつかんで歩きながら、晴輝はスーツの生地を手に感じて驚いたらしい。
「疲れちゃって、スーツのまんまベッドに転がってたとこだったんだ」
「じゃあ来ちゃ悪かったかな、駅でもらったファンレター読んでもらおうかと思ってさあ」
晴輝はテーブルまで来ると、椅子の位置を教えるまでもなく、一人で座った。俺も晴輝の向かい側の椅子に座る。
テーブルの上になにもないのを手探りで確かめてから、持ってきた紙袋の中身を豪快にテーブルの上にひっくり返す晴輝。
「あ、プレゼントの箱も入ってたんだっけ」
ごとん、という重い音に晴輝が舌を出す。
テーブルに広げられたのは、ファンレターが七通と、プレゼントが一個。もっといっぱいもらってたはずだから、とりあえず手に触れたのを持ってきたんだろう。
バーゲンに群がるおばさんの勢いだったたくさんの顔を思い出して、俺はまたうんざりした。「好き」ってパワーはすごいとしみじみ思う。
「なあ、プレゼント開けてくれる?」
晴輝はプレゼントの箱を探り当て、俺の方に突き出した。
俺がラッピングを開く音を聞きながら、晴輝は赤い顔して、酔っ払い特有のうっとりした表情になってる。こりゃ、最後には寝るな。
「香水だよ」
出てきたのは、ブランド物らしい青い香水のびん。晴輝がテーブルのふちに添えてる手に、びんを軽くふれさせて渡す。
晴輝は慎重に香水のキャップを取った。さわやかだけど少しスパイシーな感じもする匂いが、部屋中に広がる。化学者みたいにやけに神妙な顔つきで、香水の匂いを何度もかぐ晴輝。
「これ、お前にやるよ」
ずいっ、と香水が俺の目の前に突き出された。
「え、冗談だろ? これ、ファンからのプレゼントじゃん。酔ってるからそんなこと言うんだろ?」
「そんなことないって、これはお前にあうよ。ほら、もらってくれって」
なにかあったら困るから、とりあえず受け取ってキャップを閉め、もう一度訊いてみても、晴輝はいいからもらってくれを繰り返す。
「これ、俺じゃなくて隆宣さんの方があうって、隆宣さんにあげたら?」
この匂いが俺にあってるなんて、本気で思ってるのか? いかにもスマートな大人の男がつけそうな、クール系の匂いなのに。
晴輝が俺にこんなイメージを持ってるのかと思ったら、口調もなんだか早口になってしまった。
「なんだよ、俺がお前にやるって言ってんだよ。あいつはあれ以上大人装っちゃダメなんだって。お前は逆にこれつけて、かっこいい大人を演出するんだよ、分かった?」
それって、せめて香水でごまかせってことだよな……。
すごく複雑な気分で、俺は適当に返事してもらっておくことにした。酔っ払いに誠心誠意接するだけ損だ。
「さっそく明日から香水つけてよ。な、約束して。ほら」
晴輝は指きりがしたいらしく、小指を立てた右手を出した。ふわふわと、どこまでも幸せそうに笑ってる。
「なにしてんだよ、約束しろよ」
ちょっととまどっただけで、たちまちむくれて催促。
「あーはいはい、指きりね」
綿あめのように声を甘ったるく軽やかに伸ばして、晴輝は小指を絡めた手をむちゃくちゃに振りながら、指きりげんまんを歌った。
まったく、いい年こいて男同士で指きりげんまんなんて、恥ずかしい。
「絶対だぞ、忘れんなよ」
あきれながらも返事をすると、晴輝はまぶしく笑って、ようやく絡めた小指を離した。
「ところでさ、隆宣のことどう思う?」
「は? どう思う、って?」
約束に満足したと思ったら、今度は赤い顔を真面目に引き締めて身を乗り出してくる。酔っ払いにはついていけない。俺は正直、ちょっとうんざりし始めていた。
「翔一郎さんとのことだよ。俺は隆宣、マジだと思うんだけど」
俺はため息をついた。酔ってるとはいえ、晴輝は真剣だ。
「尊敬もしてるけど、ほっとけないしからかいがいのある人、って感じじゃないのか? 俺にはそう見えるけど」
とりあえず答えると、晴輝はふくれた。まるっきり小学生のガキだ。
「お前それは、ちゃんと見てないんだよ。見えるんだからしっかり見ろよ。俺には分かるんだよ、翔一郎さんとしゃべってる時の声の調子が、俺達としゃべってる時と全然違うんだ」
自分の学説の正しさを主張する学者みたいな、断固とした態度。俺としては肩をすくめて聞いてるしかない。
「時々、今どんな気持ちでこの言葉言ってんだろうって、せつなくなる時があるよ」
いつでも隆宣さんは落ち着いてて、喜怒哀楽を見せない。笑う時も口元だけで微笑むって感じだし、ましてやつらそうな顔は見たことがない。
だけど晴輝は目が見えない分、俺なんかよりずっと敏感に、隆宣さんの気持ちを察してる、って言いたいらしい。
「あいつ、本当はすごく葛藤してんだと思う。それをあんな冗談と、ドラムや料理で翔一郎さんに尽くすことで紛らわせてる気がする」
俺はわざと大きなため息をついた。いくらなんでも、思いこみ激しすぎないか? 親子ぐらい年の離れた男同士だぞ? 単に慕ってるだけじゃないのか?
「なんだよ、信じないのかよ。俺あんなふうに人を好きになれる隆宣がうらやましくて、静也にも応援して欲しいと思ったのに」
晴輝はむきになって頬をふくらませ、ますます身を乗り出してくる。酒くさい息を鼻先に感じるぐらい近い。
反論しようとしてやめた。バカらしいってのもあったけど、翔一郎さんのライブでのことを思い出したからだ。晴輝はしっかり、俺自身にもうまく説明のできない、迷いやいらだちを察知していた。
「それに、あそこまでひたむきに想われてる翔一郎さんがうらやましい……」
晴輝の声はだんだん小さくなり、俺の目の前で深くうなだれる。
「晴輝……」
途端に晴輝の身体がくたりとテーブルに崩れて、気持ちよさそうな赤い顔を腕にうずめる。だまされた。しおらしく見えたのは、ただ酔って眠くなっただけだった。
「こら、晴輝起きろ! こんな所で寝るな!」
立ち上がって晴輝の身体を起こすと、たこのように抵抗される。
「やだ、このままここで寝る……」
晴輝はうっとりと目を閉じて、腕に顔をうずめ直す。
「風邪ひいたらどうすんだ、ベッドで寝ろって!」
俺は晴輝を後ろから抱き起こすと、すぐそばのベッドに引きずるようにして、強引に寝かせた。
「すごいなあ、力持ちだなあ静也」
ベッドに丸くなった晴輝が、くすくすくすくす笑う。俺は晴輝の靴を奪い取るように脱がせ、それまで晴輝が座っていた椅子にどっかり座った。
「いったいどんだけ飲んだらこうなるんだよっ」
思わず小声で毒づいたら、
「確かねえ、三本! ちょっと飲み過ぎちゃったあ」
と、甘ったるい声で答えが返ってきた。
「ったく……」
脱力してしばらくぼんやりしてたら、予想どおり気持ちよさそうな寝息が聞こえ始めた。テーブルにはさっき開けた香水と、結局封さえ切られなかった手紙。
俺のそばで混じりあう、酒の匂いと香水の匂い。晴輝は小さく丸まって、微笑みの残る無邪気な顔で眠ってる。
立ち上がって、晴輝の枕元に立った。あくびをかみ殺しながらしゃがみこみ、揺り起こそうと晴輝の肩に手をかける。
こうして見ると、結構かわいい顔してるよな。鼻も唇もこじんまりしてて、顔は俺の手の中におさまっちまいそうだ。
洗いたての髪から、かすかにいい匂いがする。きゅっと心をつままれたような、胸のうずき。そろりと指を伸ばす。
「あ……」
髪にふれる直前で、感電したかのように手を引いた。晴輝相手になにぽわーんとなってんだよ、俺は!
そして気づいた。晴輝のジーンズの尻ポケットから、カードキーがのぞいてる。
俺が晴輝の部屋で寝た方が早そうだ。着替えとか、寝るまでの間に必要な物だけを見つくろい、部屋を出ようとして、振り返る。
手紙も隆宣さんのこともただの口実で、晴輝なりに不器用に俺に近づきたかったんだとしたら?
さっきの胸のうずきもまだ残って、胸がちくちくする。でももう眠くて、これ以上考えるのは面倒だ。
俺は晴輝の部屋に入ると、バスルームに直行してばさばさ服を脱いだ。さっさとシャワーを浴びて寝るに限る。
明日晴輝には文句の一つも言ってやらないと。大事なボディーガードの体力を、酔っ払いパワーで奪ってったんだからな。
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