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その10

 今日のライブも無事終わり、帰り支度を済ませて楽屋を出る。 「今日はすげえ気持ちよく歌えたよ。明日は移動するだけだから、今日は飲もうな」  いたずらっ子のような笑みで、晴輝が言う。 「人の迷惑考えろっての」  俺は晴輝の肩に肩をぶつけた。晴輝がふざけて、わざとらしくよろける。 「ごめんて、香水あげたじゃんか」 「そういう問題じゃなくて、ちょっとは反省しろよな」  たわいない会話をしながら、会場の楽屋口から一歩外へ踏み出した、その瞬間。  なにかが迫ってくる。とっさに晴輝を立ち止まらせて背中にかばい、立ち向かう。  出待ちのファンの頭上を越え、歓声に混じって飛んでくるいくつもの白い球体。  卵だと気づいたのは、ぶつかる直前。  情けない音がして、卵は俺の胸と、顔をかばった肘にぶつかって割れた。  一瞬のざわめき。重苦しい沈黙。  怒りが噴き上げ、人だかりの背後をにらみつける。  くそっ、誰だ? なんでだ? 卑怯者!   握りしめた拳が震えた。怒鳴ってやりたかったけど、怒りのあまり言葉にならない。  一時停止をかけられたみたいに、ファンの群れはひそやかに固まってる。俺も怒りに縛られて動けない。  悔しい。とにかく悔しい。なんで晴輝が卵なんか投げつけられなきゃいけないんだよ! 「静也? いったいなに……」  晴輝が不安そうな声で俺の前に回ろうとして、指にふれた液体にびくりと手を引く。 「どうかした?」  背後から大石さんの声。でも俺は唇を噛みしめたまま、なにも言えない。うっすら、血の味がする。  さすがに大石さんの顔色が変わった。俺の身体を探り回ろうとする晴輝の手。がっしり握って止める。晴輝の顔がやけに白い。 「早く車に」  大石さんの声に、ほとんど反射的に動く俺の身体。晴輝の表情がこわばっている。投げつけられた物の正体が分かったんだろう。 「晴輝、てめえムカつくんだよ!」  どこからか降る罵声。大石さんと二人で追い立てるように、晴輝を待機していたワゴン車に乗せ、翔一郎さん達も乗りこんで、車は走り出す。 「……卵、投げつけられたんだな……」  晴輝の声も唇も震えていた。 「早く気づけてよかった」  まだ怒りはおさまらない。とにかく晴輝にぶつからなくてよかった、そう思う。でも言葉がとがって、慰めにならない。  晴輝は俺の隣、一番後ろの座席の隅で、自分の身体を抱くようにしてうつむき、唇をかみしめている。 「村上君、明日費用うち持ちで新しいスーツ買わせて」  助手席の大石さんの声も硬い。 「え、でも……」 「いいの、たとえクリーニングできれいになっても、私がそのスーツ見たくないから」  それ以上、誰もなにも言えなかった。ウエットティッシュでスーツを拭く音だけが、やけに響く。 「……ごめんな」  汚れを拭き終えた途端、それを待っていたようにぽつりと置かれる、晴輝の言葉。  思わず晴輝を見つめ、次の言葉を待った。俺だけじゃなく、みんなの意識が晴輝に集中してるのが分かる。 「ごめんな、静也」  どうして俺に謝るんだ? 謝る必要なんかない、むしろ、卵をぶつけられた後素早く対応できなかったから、俺が謝りたい。慰めたい。  あわててノートをひっくり返すように言葉を探しても、どこまでも白紙で。 「なんで……」  結局、出てきたのはそんな綿ゴミみたいな言葉だった。 「汚れちまっただろ」  うつむいたまま、晴輝はかすかに唇をゆがめて笑った。  ずき、と鼓動が跳ねた。痛い。すげえ痛い。それはとても、深い言葉のように思えた。 「そんなの、なんてことないよ。新しいスーツ買ってくれるって言うし」  やっぱりどうでもいいことしか言えない俺に、そっか、と晴輝のかすれた声。  小さくしぼんだその姿はとにかくせつなくて、なんの役にも立てない自分が悔しくて情けなくて、きつく拳を握る。 「どうする、このままホテルに帰る?」  大石さんがバックミラー越しに晴輝を見る。うん、と力なくうなずく晴輝。 「晴輝、今夜は飲もう。部屋で飲もう」  とても見てられなくて、俺は思わず言っていた。 「お前さっきは、飲むの控えてくれって言ってなかった?」  ようやく、晴輝はゆっくりと顔を上げた。目は真っ赤になってたけど、泣いてはいない。 「いいんだよ、今日は。もう絡まれるのにも慣れたよ」 「そっか、じゃあ飲もう」  晴輝の明るい声に、車内の空気がほっとする。晴輝のいつもの笑顔に、一時的とは言え、俺の怒りも砂糖のように溶けていった。  新幹線で仙台に着いた。九月末の風が冷たい。さすが北国だ。  約三週間の旅を広島公演で締めて東京に帰った後、一週間くらい間を置いて、今度は東北と北関東。最後は東京公演を五日間やって、ついにツアーは終わりだ。  いつものように晴輝をファンから守りつつ手引きして、新幹線の改札を出る。イベンターさんの案内で、駅の一階で待っていたワゴンに乗りこむ。  あわただしくて、仙台に来たって気分を味わえるのは駅のあちこちにある広告ぐらいのもんだったけど、俺は機嫌がよかった。  今日ライブをやったら、明日は丸一日休み。次の街に移動するのはあさっての朝の予定だ。給料も入ったし、久々に買い物でもするか。仙台は初めてだしな。  浮かれ気味の俺とは対照的に、晴輝はおとなしい。具合が悪そうにも見える。朝からずっとこうで、俺は晴輝の方からなにか言ってくれるのを待ってみた。新幹線の中でも、晴輝はずっと目を閉じていて、無口だった。でも寝てはいなかったのは、明らかで。  会ってなかった間になにかあったのか。それとも、卵投げつけられたショックから、まだ立ち直れてないのか。  買い物にでも誘ってみようかな。心配だし、こんなに晴輝がおとなしいなんて、こっちの調子も狂っちまうしな。 「晴輝、なんか元気ないな。具合悪いの?」 「……そんなことないよ」  そう答える声がすでに暗い。 「具合悪いんじゃなかったら、明日買い物行こうぜ」  ずっとうつむき加減でワゴンの窓に頭を預けてた晴輝は、いくらか表情を明るくした。 「一緒に? いいの?」 「ああ、行こう」  前に座ってた大石さんが振り返る。 「明日は日曜で人出が多いから気をつけて」  大丈夫ですよ、と答えると、 「そうだよ、全然問題ないよ。静也と一緒だもん」 と、晴輝はさっきまでの暗さが嘘みたいに、明るく笑う。  なんだ、そんな大したことないんじゃないか。  晴輝の笑顔に、俺はほっとした。心も身体も疲れがたまってきてるのかも知れない、明日は街をぶらぶらしてリラックスしてもらおう。  そう言えば晴輝と二人だけで出かけるなんて初めてだ。そう思うとますます、俺の心は弾んだ。

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