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第4話
昼前に訪ねた真城さんの家は空っぽで、勝手に上がって土の様子を見ていた時だった。
「あー確かにオメガの耳だな」
誰かに後ろから耳を引っ張られ、痛みより先に驚きが来た。そして俺が振り返るより先にもう一度強い力で引っ張られ、誰かに抱きすくめられる。
「話には聞いてたが、確かにオメガらしくないな。でかいし、耳も垂れてる。抱き心地も悪そうだが……いや、そうでもないか」
聞いたことのない声。当然真城さんじゃない。
乱暴に腕の中に収められて、無我夢中でなんとか逃げ出し振り返る。
その瞬間、呼吸が止まった。
「……っ!」
艶やかな黒い毛並みとギラギラとした金色の目。典型的アルファの特徴を持った獣人がすぐそこにいた。
なんでここに。誰か問わなければ。いや、それより逃げなければ。
そうは思っても、その瞳を見た瞬間恐怖で力が抜けて座り込んでしまう。
「なんだ、俺が恐いか?」
それを見て、黒い獣人が笑う。白い歯と赤い舌が黒い毛並みとの対比で目立って、それから目が離せない。思考が止まる。
「いいなその反応。そこまで怯えられるとゾクゾクくる」
「い、いやだ」
乱暴に腕を掴まれ、そのまま押し倒された。今さら慌ててもがいても押し付けられた腕は少しも動いてくれず、のしかかられて視界が黒く染まる。
赤い舌が伸びて、その恐ろしさに目をつぶって顔を背けると、生暖かいものが首を這った。あまりの恐怖と気持ちの悪さに強く閉じた目がじんわりと熱くなる。
「いいぜ、泣いてみろ。従順よりも泣いて抵抗された方が燃えるんだ俺は」
泣いちゃだめだ。絶対に泣いちゃいけない。泣いていないで頭を働かしてなんとかこの場を逃げるんだ。
今はヒート状態じゃない。だったらまだなんとかなるはずだ。なんとか。
「な、に……やってるんだ玄野 っ!」
恐くて、泣きたくて、でもなんとかしなくちゃと気持ちを振り絞ったそのタイミングで、真城さんの聞いたことのない怒鳴り声が響いてなにか重いものが落ちる音がした。そしてそれとほぼ同時に俺にかかっていた重みがすんなりと消える。
恐る恐る確かめた視界を埋めたのは、黒ではなく、白。
癒される真っ白な毛並み。ああ、真城さんだ。
「お前、百原くんになんてこと……!」
「あーやっぱこいつがモモハラか。って、そんな恐い顔すんな。からかっただけだろ」
悪びれない黒い声は終始楽しそうで、真城さんが震えるほどに怒りを伝えても飄々としている。それどころかまるで煽っているようだ。
「出てけ玄野」
それを受け取らず、真城さんは俺を守るように抱きしめて冷たい声で告げた。
名前を知っているということは知り合いなのか。いや、そもそも家の中にいたんだからそれなりに知っている仲なんだろう。だからたぶん、この人は本当に俺をからかっただけなんだ。アルファにとってのオメガ、しかも俺みたいなそそられないオメガなんてそんなものだ。
「ちょっとした冗談だろーが。そんなマジになるなよ。反応が良くてついやりすぎただけだって。本気で孕ますつもりなんかねぇっての」
「冗談で済むか。やっていいことと悪いことの区別がついてない。出ていってくれ」
「ハァ……わかったよ。せいぜいナイト気取ってろ」
おどけた調子で両手を上げて、黒い獣人――玄野さんは出て行った。閉められたドアの音がやけに響き、俺は真城さんの服をぎゅっと握る。
それに気づいて、真城さんが俺を抱えたままその場に座って、なだめるように背中をそっと撫でてくれた。
「すまない百原くん。荷物を下に取りに行っていたんだ。まさかすれ違った上にあいつとキミが出会ってしまうなんて……。本当に申し訳ない」
真城さんはまったく悪くないのに何度も謝ってくれて、その体にしがみついたまま必死に首を振る。そのせいで気が緩んだのか、今さらぼろぼろと涙が零れてきた。泣くなんてみっともない真似したくないのに、後から後から涙が溢れ出てきてしまう。
「……あの、ごめんなさい。からかわれただけなのに、お友達に俺……」
「あんな奴友達なんかじゃない。謝らないでくれ。悪いのは100%あいつだ」
真城さんの声が怒ってる。それなのに子供にするみたいに頭を撫でてくれる手は優しくて、隠すように真城さんの胸に顔を埋めた。
「キミが来る前に追い出そうと思っていたのに。……恐い思いをさせてしまて本当にすまない」
なんでこんなに真城さんは優しいんだろうか。
きっと本当にあの人にとってはただの悪ふざけで、ちょっと変わったオメガにちょっかいをかけただけなんだろう。俺が怯えすぎただけなんだ。
それなのに真城さんはただただ優しく慰めてくれるから、こんな風に頼ってしまう。服越しの柔らかい毛並みの温かさにすごく安心する。
どうして俺、真城さんだと大丈夫なんだろう。
「僕は大丈夫なのかな」
どうやら真城さんも同じ疑問を持ったらしく、少し戸惑うような声が降ってきたからぐりぐりと頭を擦り付けた。恐いどころか安心してしまうのは、自分でも不思議なことだ。
「……なんでか真城さんは最初から大丈夫なんです」
「まあ僕はアルファらしくないからね」
「それだったら俺だってオメガらしくないです」
自嘲気味の笑い声に、俺も合わせて小さく笑う。
変わりもので残りものなのはお互い様だ。
「……恐かったのは、あの人だけが原因じゃないんです。それだけじゃなくて」
ほっとして緊張の糸が切れたせいか、俺の口は勝手に思い出してしまった恐怖の理由を語りだした。こんなこと、真城さんに聞かせるべきじゃないのに、真城さんがあまりにも優しく俺を包んでくれるから甘えてしまったのかもしれない。
だからぼそぼそと喋った。とりとめのない昔話を。
自分がオメガらしくないとわかっていたから、話には聞いていたヒートも、そんな大したことだと思っていなかったこと。
だけど高校生で初めてヒートが来た時、掃除で体育倉庫にいて、薬も手元になくて、そこにアルファがいたこと。そして気づいたら全部終わってたこと。
「その時は先生が気づいてすぐに病院に行ったから大丈夫だったし、その後も特別アルファが恐いとは思ってない、と思ってたんですけど……あの黒い毛並みと金色の目を見たらフラッシュバックしちゃって」
よく知らない相手に、流されるまま体を暴かれるあのどうしようもない感覚。いくら耳の形が普通とは違おうとも、普通より体格が良くても、俺はオメガであり、アルファに支配されるものなんだと思い知らされた。それが蘇って動けなくなってしまったんだ。
「助けてくれて、ありがとうございました」
だからこそ、真城さんが助けてくれて嬉しかった。こうやってただただ話を聞いてくれる優しさが本当に頼もしくて、かっこよくて。
「助けたなんてとんでもない。さっさとあんな奴追い出しておけば百原くんが不快な思いをしないで済んだんだから」
「気負いすぎだし優しすぎです。それにさっきは間違いなくヒーローでしたよ」
そう言い切る俺に真城さんはまだなにか言いたそうだったけれど、それより先に俺が口を開いた。
「甘えついでに、もうちょっとこのままでいてもいいですか」
「百原くんがが望むなら」
ほらまた。
いい人すぎて俺の抱き枕状態でいることを簡単に了承してしまう真城さんに、俺は今だけと自分に言い訳をして少しだけ強く抱きついた。
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