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4.その薬は弱者の証

 北へ向けて旅立ち半月以上が経ったあたり、立ち寄った村でハトリとシグは足止めを食らっていた。 「……やばっ!!」  ハッとして目を覚ましたが早いか跳ね上がる勢いで起きたハトリだが、カーテンが開かれた窓の外はすっかり茜色だ。  なんてことだろう。疲れのせいとはいえ、丸一日寝て潰してしまっただなんて。 (さすがに夜に旅立つわけにはいかないな……。)  窓から夕方の景色を眺めて、がっくりと肩を落とすハトリ。  記憶が正しければ、彼が眠りに就いたのは患者の熱が下がったのを見届けたあと、深夜のことだ。シグには朝になったら起こすよう念入りに頼んでいたはずなのだが。  頭を抱えてこの先の旅路について考えてみるが予定はとうにガタガタ。自分の身体の都合的に到着しているべき日にちまで、二日三日は遅れが生じている。 「ハトリー!」  窓辺に佇んだまま恨めしげに爪を噛んでいたハトリは外から名を呼ばれてはっとした。シグの声だ。 「やっと起きたんだね、大丈夫?」  外をうろついていたらしく、見慣れた豹顔が機嫌良さげに駆け寄ってくる。狩りにでも出ていたのだろう。服は砂埃だらけだった。 「シグ、起こしてくれと頼んだはずだ……!」  珍しく焦った様子で窓越しに詰め寄られ、黒い耳はパタンと伏せてしまった。  こうなってしまった以上どうしようもないが、ハトリは起こされれば目を覚ます自信があったのだ。 「ごめん。でもハトリ、すごく疲れてた。寝かせてあげたかったし、それに……、」  悪戯がバレた子供のように項垂(うなだ)れてしまうシグだったが、この子なりの思いやりであったならばハトリには責めにくい。  起こさなかったのか起こせなかったのかはさておき、しゅんとして尾の先を地面にぽっとり落としてしまうのだから、シグも悩んだ末のことだったのだろう。 「……お前にも心配させてたのかもしれないけれど、これからは多少強引にでも起こしてほしい。」 「う、うん。ごめんね。」  視線を逸らしたまま頷き返すシグ。ハトリは溜息をこらえながら、余分な息を鼻から細く流した。 「あ、でね! 今日は兎とか鹿とかを狩ってきたんだ。馬でもあれば少しは楽になるかなって思って。食べ物でお代がわりにならないかな。」  これにはハトリは目を丸くした。シグは子供っぽい優しさで育て親を寝かせたままにしたわけではなく、ちゃんと先のことも考えていたらしい。 「鹿が四頭と、兎が七羽と、鴨が二羽! これだけあれば足りる?」  シグの体力から考えてもかなり頑張ったとわかる成果だ。元気が有り余ってる野生児とはいえ、一日中獲物を求め続けるに要する集中力は並大抵のものではない。  この子なりに良い結果にしようと、一日中頑張ってくれたのだろう。  だが、足りない。 「……ありがとう、お疲れ様。」  頭を撫でられたシグはその時だけは嬉しそうに目を瞑るが、ハトリが飲み込んだ言葉には気付いてしまったらしい。 「ごめんね。」 「いや、心配かけていた僕が悪い。」  それだけ馬は貴重なのだ。  この村に来たのはこれで三度目。それなりに親しくなってはいるが、大事なものを目付役なしで借りられるほどの信頼関係には至っていないだろう。  シグの出した成果は上々だが、御者付きで一週間ばかり行けるところまで馬車を出してもらうのが精々か。それでも一日遅れを取り戻せるかどうか。この先の村や町で薬師の手を求める者がいないとも限らない。 「村長には僕からも言ってみるから、お前はまず水浴びでもしておいで。」 「わかった。」  互いに身支度を終えた頃には、村はシグの持ち込んだ獲物にざわめき始めていた。ほとんど祭のようなノリで盛大に火を焚き、夜通しで解体するのだと浮かれている。  騒ぎの傍ら、ハトリは村長にだけこそりと手持ちの酒を振る舞い、おあしの勘定に話を絡めつつ馬を借りられないものかと交渉にあたる。  予想通り馬だけ借りるのは断られたが、御者と馬車を十日ほど出してもらえることになった。シグの頑張りは無駄ではなかったようだ。  それでも予定通りに到着するのはもう無理だ。となれば、ハトリにはやらねばならぬことがある。  そこそこ腹が膨れてからは早々に、疲れているからと断り村長宅の客間へ一人で引き返す。  目当ての品は、薬箱の錠前付きの小さな抽斗に仕舞ってある。  鍵なんてない。何代も前から使われている年代物の薬箱なのだ。備品なんてとっくにどっかにいっている。が、古いだけありコツさえ掴めれば簡単に開けられてしまう代物だったりもした。ハトリが父から継いだ鉄の薬匙の持ち手側がやけに細くてひしゃげているのはこれのためだ。  シグには開かずの抽斗と説明しているので、開けられるのは手癖の悪い人間とハトリだけ。  慣れた手つきで錠を解きガタつく抽斗を開ければ、中には乾燥した小ぶりの実がたんと敷き詰められている。そこに半ば埋まるように、細い輪の形をした金の耳飾りが二つ。  耳飾りはもちろん、シグのもの。出会った時に身につけていたものだ。  この抽斗を開ける度に、ハトリはこの耳飾りを磨いていた。おかげで今でもキラキラ、黄金色に輝いている。  ハトリにも里の者にも読めなかったが、よく見ればこの輪の内側には文字らしきものが小さく彫られていた。シグは実際にはかなり高位の生まれなのかもしれない。  だがハトリはやはり、砂漠へシグを返すという選択には躊躇がある。  本人にもその家族にも申し訳ないと思いながらも、磨いた耳飾りは元の通りに抽斗へ返すしかない。  そして次に手に取るのは、乾燥した実を一掴み。  先日にも商人が欲しがっていたハタエスグリとはこれのことだ。  角灯の明かりだけを頼りに鉄の容器へ放り込む。砕くように重い薬研車(やげんぐるま)で叩けば、パリパリと薄皮が割れる音が響く。  ハタエスグリの使い方に関しては何も難しいことはない。中身を粉にして飲むだけの単純な薬だ。  本当ならばこれは人里を離れてからするべき作業なのだが、必要になる前に辿り着けないとなれば人のいない今のうちにやるしかないだろう。  というのもこの薬、ハトリにはわからないが一部の人の鼻には臭うのだ。特に潰してからなんて最悪らしい。  聞くところによれば、乾いた精の臭いなのだという。  それがわかるということがどれだけ恵まれたことなのか、今の時代には知る者は少ない。それもそのはず。  この薬を必要とする者は、いまや人としてすら認められていないのだから。  しっかりと潰したハタエスグリを(ふるい)にかけてから、薬匙一杯分ずつ薬包紙に包んでいく。黙々と、繰り返し、繰り返し。  これで三日分はできただろうか。次の一掴みを取ろうと開けっ放しにしていた抽斗に手を伸ばすハトリ。  敷き詰められた実に指先を埋めた時、扉の向こうからタンタンと足音が聞こえた。出来上がりの品はまだまだ足りていないが、やむを得まい。今夜の作業はここで終了だ。 「ただいま、ハトリ!」  パタン。  シグの明るい声が聞こえたと同時に抽斗を閉める。それがわからないように身体で薬箱を隠しながら、振り返ったハトリも取り急ぎ笑みを浮かべた。 「おかえり、シグ。早かったね。」 「ハトリがいなきゃ楽しくないよ。」  肩を竦めながらも腹をさすっているので、どうやら胃はきちんと膨らませてきたらしい。なによりなことだ。 「馬は借りれなかったけど、十日馬車で進めることになった。シグのおかげだ。」  そそくさと後片付けをしながら朗報の口ぶりで礼を告げるも、馬狙いだったシグは僅かに残念そうだ。 「馬だけ貸してくれればいいのに。」 「誰だって乗り潰されたらたまらないからね。乗せてもらえるなら十分御の字だよ。」 「……それなら良かった。」  少なくとも自分は満足している、という風で言い聞かせられて、やっと納得したらしい。  出立が控えているとなれば明日の朝は早い。借り物の寝間着にいそいそ着替えるシグだったが、寛げる恰好になってからそれとなく窓を見つめている。 「臭うかい?」  今までならシグがハタエスグリに鼻を摘まむことなどなかった。獣人は人間より嗅覚が利くにも関わらず、だ。 「うん。もう窓開けていい?」  嗅覚の鋭さが災いして作業中のハトリに近寄れないなんて、シグにはよくあること。粉末を扱う以上勝手に換気なんて真似もできず、律儀に我慢しているようだ。  出来上がりの薬包を巾着にまとめてから「いいよ」とハトリが頷けば、シグは一目散に窓を開けて鼻を摘まんでいた。 「なんの薬?」  尋ねられたところで、ハトリにはとても答えられない。  シグを信頼していないわけではないが、この子は嘘が苦手な性格だ。ハタエスグリの名を聞く度に知らぬふりを続けていけるとは思えない。 「ちょっと珍しい薬だよ。」 「ふうん……。」  ある種の弱い人々は、周期的にやってくる身体の異変をこの薬で凌ぐ。  そしてその弱者のほとんどは、百五十年も前に人間の手により捕らえられた。  その弱者のことをかつて人々はこう呼んでいたのだ。  ――オメガ、と。  今やオメガの存在を知る者は少ない。  優れた種であるとされたアルファの名も、民草の代名詞であったベータの名も、今や人々の常識の範囲外。ただの知識と成り果てている。  そして、ハタエスグリの臭気を嫌うのはアルファのみ。  中でも安定した繁殖が可能となった身体の成熟した個体だけだ。 (やっぱりシグはアルファなんだな。)  獣人の中でも抜きん出た身体能力を考えれば、妥当だろう。それでなくともハトリは出会った時から理屈では説明できない確信を抱いていた。  番として相性のいいアルファとオメガのことを、かつては『運命の番』と呼んだとかなんとか。  言葉遊びか恋の火遊びか、運命に出会ったことのない者は皆首を傾げるが、ハトリは十三年ぶりに改めて思い知る。  やはりシグは、自分の運命の相手だった。 「こんな臭い薬、飲める人の気が知れない。」  仏頂面で窓の近くを離れようとしないシグがそう呟くので、ハトリはこそりと苦笑を浮べていた。  これがなければ、自分たちは親子でいられなくなるのだから。

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