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5.育て親は鈍感につき
馬車での旅は快適だった。荷車に馬を繋いだだけなので腰は痛むが、荷を担いで歩くよりはずっと楽だ。
疲れが溜まっていたハトリは寝て過ごせたし、背負子を下ろして身軽になったシグは馬の歩みに合わせたり先へ行ったりと野っ原を駆け回り、自由なものだ。
幸いにして次の村では病人はおらず補給だけしてすぐに立つことができた。更に次の寒村では高熱に苦しむ子供がいたため一晩だけ泊まった。
当然のようにおあしは出ない。寒村はどこでも余裕がない。
こちらも事情はわかっている。シグの荷物だった食料もかなり嵩が減っていたので、礼代わりによく乾いた薪をいくらか分けてもらった。山で入り用になるからだ。
「ハトリ様はどうしてこんな土地に立ち寄られるのですか?」
薪だけなんて、ほとんど代償なしで薬を恵んでもらう貧者に対し、少しでも持つ者は思うところがあっても致し方ない。
御者を勤めてくれる若者の問いに、ハトリは答える。
「物々交換が当たり前で育ったから、貰えるもので満足しているよ。不公平に思われるかもしれないけれど、命なんてそもそも不平等で値段の付けられないものだろう。」
そこそこ大きな村だったなら食料や茶を求めたいところだが、こんな辺境だと旅人の方がいい物を持っていることも多い。
得るものがない土地に、損得勘定ができる薬師はわざわざ寄り付かない。それもまた道理。そこをハトリは、薪と引き換えにわざわざ余分な薬を残していく。
「単に働きすぎなんだよ、ハトリは。」
四つ足で存分に走り回っていたはずのシグが荷台に飛び乗ってくると、突然の揺れに馬が驚き嘶いた。若いなりに振る舞いがいささか乱暴なのだ。育て親に視線で窘められてもなんのその。
次の宵越しを終えれば馬車旅は終わり、再び徒歩の旅が始まる。薪を背負子に括り付けるのに助けが欲しかったハトリへ、心得たシグが自ずと手を貸した。
「ボクだってそろそろ子供じゃないんだから、手伝えること、たくさんあると思うのに。」
「お前はまだまだ子供だよ、シグ。」
むしろそうであって欲しかったとすらハトリは思うのだが、シグはむっとしている。
「せめてボクの手も五本指だったらよかった。」
「シグ、そんなことを悔やまなくてもお前の強みは僕とは別にちゃんとある。」
最後の薪を括り結びきってから、荒縄の扱いで痛んだその手でハトリはシグの頭を撫でてやった。以前ならもっと撫でやすい位置だったというのに、時の流れは速いもの。
「でもボクはハトリに必要とされたい。」
「お前のおかげで安全に歩き旅ができるんじゃないか。僕一人じゃどこかで野犬にでも食べられていたかもしれない。」
「もういい、嘘ばっかり!」
慰められているに過ぎないとでも思ったか、シグはぷんすと鼻を鳴らし、長い尾でハトリの手を叩き落としてしまった。
「おや、喧嘩ですか?」
他人事とばかりにからかってくる若者に構うことなく、荷台にごろんと転がるシグ。ふて寝のつもりかなんなのか。
「今の会話のどこに喧嘩の必要が?」
「なるほど、お連れさんは苦労している。」
くつくつ笑われてしまうと座りが悪い。御者の若者の言わんとするところがよくわからず、会話に詰まったハトリも体力温存を兼ねてシグの隣で横になる。
広い蒼穹で視界がいっぱいになると、それだけで別世界にいるようだ。
「シグさん、諦めがついたらうちにいらっしゃい。妹があなたを気に入っている。」
「そんな日は来ないよ。」
すげない返事一つとともに気怠げに寝返ってハトリへ背を向けたくせ、シグの黒いすべすべの尾は探るような動きで薬師の薬臭い手に巻き付いてきた。
そこに含まれる想いには気付きもせず、ハトリは良い話を聞いたなと心のどこかでほっとしてしまっている。
(根が寂しがりのこの子でも、慕ってくれる娘がいれば幾分違うか……。)
やがて陽が落ち、一行は共に過ごす最後の夜を迎える。
ハトリは御者の若者へ礼を兼ねて酒を振る舞い、帰りの駄賃として旅銀までいくらか押し付けた。家族への土産が買える程度の金子だ。
ハトリの大盤振る舞いにシグはあまり良い顔をしなかったが、彼の育て親は不幸にして理知に富みながらも鈍感である。
翌日の払暁 の別れ際、ハトリが「道中気をつけて。」と握手を求めれば、若者は右手を差し出してきながらもちらりとシグを見やり、渋い笑みを見せた。
「そちらも気を付けられた方がよさそうですけどね。」
「?」
残念ながら、ハトリにはなんのこっちゃだ。
馬車を見送ったあとは二人きり。慣れた歩みで五日も街道を進めば最後の町に辿り着く。足りないものはそこで買い足し、その先は山道のみ。中腹あたりで逗留しやすそうな場所を見つけて、運んできた天幕を張る予定だ。
(到着まではあと十日くらいか。一週間くらいでヒートが来るから、登るのは大変だろうな……。)
考えるだけで憂鬱になるが、拵えた薬でなんとかするしかないだろう。妥協して四合目くらいでの逗留も視野に入れた方がいいか。
手持ちの薬で足りるかどうか、不安が付き纏う。
「ねえ、ハトリ。」
指折り日数を数え、考え事をしながら黙々と歩いていたハトリだったが、聞き慣れた声に名を呼ばれてはっと面を上げる。
「どうした、シグ。」
隣へ目を向ければ、いつも能天気そうにくりくりしていたはずのシグの金の目が憂うような鈍い色をしていた。
珍しいこともあるものだと首を傾げているハトリ。
「……ああ、一人減ったから寂しいのかい?」
にこ、と控えめに笑んで尋ねてしまう彼は、迂闊にもほどがある。
「ちがうっ!!」
ぴしゃりと問いを跳ね除けられて、やっと何かおかしいと気が付けたくらいだ。
「……シグ?」
急がねばならぬ旅の身空でありながら、つい足が止まってしまう。
多少素行が乱暴でも、温厚なハトリに育てられたシグは声を荒げることなど滅多になかった。では、何が気に入らないというのか。
「ハトリ。ねえ君、ボクに何か隠してない?」
穿つような流し目で斜に見つめられ、ハトリは戸惑う。シグは元より聡い子ではあったが、どこで疑われるような真似をしてしまったのか、自分ではまったくわからない。
とはいえシグとて確信を抱いているわけではなかった。
「それとも変なのはボク? なんか、最近なんか変だよ……!」
動揺を口でうまく伝えきれないのか、肉球で顔を洗うように目蓋を抑えて、訴えは肉食獣の唸り声にも似ている。
「体調でも悪いのかい?」
「わかんない……! すごくもやもやする、胸も苦しい!」
とても重病人のようには見えないが、言わんとすることは薬師のハトリにはなんとなくわかった。
「シグ。最近僕が無理をしたりお前に心配かけさせたりしたのも悪かったんだろうけれど、それは仕方のないものなんだ。」
肩に手を置きながら語りかけられて、おどと金目が覗いている。
こういう面差しと挙動は子供のようだが、やはりもうシグは大人になる日が近付いているのだ。
「仕方ない? こんなに苦しいのに?」
「そう。お前の身体が大人になろうとしているせい。その時期は人間も獣人も、不安定になりやすいんだ。」
獣に近い習性を持つ獣人は土地に根ざして生きるのが常だ。ただでさえシグの身元は山岳向こうの砂漠のキャラバン。気候が違う山岳こちらの王国側は、もともと肌に合わないのかもしれない。
三ヶ月前まではなんともなかったハタエスグリの臭いを気にし始めたり、変化の著しい身体には、最近ストレスが激しすぎたのだろう。
その上、毎日一緒にいる育て親はオメガだ。
「最近、ハトリから甘い匂いがするのも? それが気になって朝起こせなかったりしたのも?」
「……そうだよ。」
いくらヒート期に薬を欠かさぬようにしていても、敏感な若い獣人のアルファにはオメガの香気が常にわかってしまうのか。ハトリもそこまでとは知らなかった。
それでは常に猫にまたたびを与えているようなもの。身体のバランスが崩れるのは当たり前だ。
「お前がおかしいんじゃなくて、お前はちょっと疲れているだけなんだ。」
もし出会った時のシグが幼体ではなく今のシグだったならば、ハトリは迷わなかったかもしれない。
本能のまま身体を繋げて、先のことなんて考えなかっただろう。
でも今は本能以上に、理性でシグを可愛いと思ってしまっている。運命を疑うことはなくとも、抱かれたいという感情には程遠い。
「ずっと我慢させてたんだね。悪かった。」
「……。」
大人然としたハトリの言葉に、シグはまだ完璧には得心がいかなかったのかもしれない。それでも胸に仕舞い込んでいた気持ちを吐露して幾分落ち着いたのか、顔を隠すように項垂れたままながら、ぽつりと静かに口を開く。
「ボクはもう、ハトリとは一緒にいれないの……?」
やはり自分も知らず知らず態度でボロを出していたらしい。ハトリは内心こそりと舌を巻く。
いずれ話さねばならないことなのだから、むしろいい機会を得られたと感謝すべきか。
「それについても、ゆっくり話そう。」
猶予は示しても否定はせずに、ハトリが先に歩き出す。
薬箱を背負う背中へ向けられたシグの瞳は、燻ぶる火花にも似た、灼けた輝きを秘めていた。
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