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6.弱者の限界
予定は大幅に狂っていた。
まさか立ち寄った町に食あたりの集団感染が起きていたとは流石に想定外。どこかの露店が痛んだ魚を焼いて出してしまったらしい。
何度か立ち寄ったことがある上、宿がない時に教会で世話になっていたのが仇となり、ハトリはすっかりタダ働きで便利使いされてしまった。
免罪符じゃ飯の種にはならないと一度くらい神父に物申してみたい。断れるとしても断らなかっただろうが。
町に入って、既に三日が過ぎている。明日でやっと自由の身だが、厄介なことにハトリの身体はとっくにヒート期を迎えていた。
薬さえしっかり飲んでいれば倦怠感だけで済む。しかしその薬は、わかる人にはわかってしまう酷い臭気を持っているわけで、懐に入れて持ち歩くのはリスクがある。
王室と貴族、そして教会は、昔からアルファが多い。人間で占められているため獣人ほどオメガの香気に敏感ではないが、ハタエスグリの粉薬の臭いは絶対に悪目立ちしてしまう。
飲む回数も三時間に一回と頻度が高い。人目につかないように借りている部屋へ駆け込んで、シグの目を盗みこっそりと飲むしかない。
この状況下、不安定になっているシグを連れて倦怠感を抱えたまま山を登るのと、体調が落ち着くまでアルファがいるかもしれない教会に逗留するのと、どちらが自殺行為だろうか。
賄いの食事を匙でいじりながら、胃もたれする悩みと向き合う。
結論なんて、どう考えても後者だろう。
「はあ……。」
身体に鞭を打ってでも、明日には町を出るべきだ。
嘆息の暇さえない。今夜には薬も作り足しておかなくては。
「おかえり。」
重い身体で部屋に戻れば、滞在中は留守が多かったシグが戻ってきていた。明日の出立の支度をしているらしい。いつもならハトリに任せきりの仕事だというのに。どことなくよそよそしい雰囲気だ。
教会の賄いは若い獣人の口には合わない。パンはぽそぽそしているし、野菜は味気ないし、量もない。シグには物足りないだろうからと、外で済ますよう駄賃も渡していたのだが。
「ああ、ただいま。シグ。」
すぐに薬を飲みたかったのだが、見られるのは困る。俄かに抱いてしまった憂慮が顔に出なかったか不安に思いつつ、ハトリは後ろ手に扉を閉めた。
「食事は済ませたかい?」
「うん。」
一人になれないとなれば、疲れているからと嘯いてでも薬を飲むべきか。いや、そうするとシグが心配してまた出立を遅らせようと言い出すかもしれない。それはまずい。
薬を飲むことにばかり気を取られたまま椅子に腰掛けてそれきり、思った以上に言うことを聞かない我が身に気が付いてしまう。
「ハトリ。ボク、考えたんだけどね、」
荷物の整理が終わったのか、水差しから飲み水を注いだシグ。ハトリへグラスを差し出しながらそう切り出して、彼は言う。
「商会のある街か都かどこかに、部屋を借りようよ。」
この町に辿り着くまでの道中で、ハトリはシグに話をした。
獣人はそもそも旅に向かないこと、せめて敏感な今時期はどこかに腰を落ち着けて生活した方がいいこと。
一緒に旅を続けるのが難しいという現実。
実際には一番の理由は、アルファのシグにとってオメガのハトリの香気が毒だからなのだが。
それに対して、シグは別案を考えてみたという。
「部屋?」
「そう。」
どういうつもりかは、その言葉だけでハトリにも十分わかった。
「ハトリは旅がしたいみたいだから、ボクが留守番をするよ。拠点があればもっと難しい薬も作れるって言ってたでしょ? ボクはそれの世話をしてハトリが帰るのを待つよ。」
しおらしい提案はハトリにも甘美に聞こえた。しかしそれでは、番にならずともシグの未来を縛ってしまうことになる。
「シグ。僕は君に幸せになってほしいんだ。」
そうは言っても、ハトリには人の幸せというものがよくわからない。はるか昔に追われたオメガたちが寄り添いあって作った隠れ里で、ひっそりと生きてきた身なのだから。
オメガの男女でも子供がまったく作れないわけではない。しかし孕ませる力に欠けたオメガたちでは、子供ができないまま死んでいく夫婦がほとんどだった。
今となってはいつ滅びるかといった細々とした暮らししか残されていなかったが、それでも好きあった男女が平等に添い遂げ合うのは一つの幸せだと教えられてきた。
男同士でもアルファとオメガなら家庭は築ける。しかしオメガが駆逐された世では、男女による異性婚が正義だ。
マイノリティの厳しさを知るハトリは、シグにそれを望まない。
「好きな人と結婚して、子供を作って、周りの人に愛されて生きて欲しい。もちろん僕も会いに行くよ。寂しがる必要はないんだ。」
熱っぽい頭で言葉を選びながらそう告げて、ハトリは受け取ったばかりの水を飲む。火照る身体にひんやりと染み渡っていく。
「ハトリの幸せは?」
ほっと肩を落としていたハトリだったが、そのシグの問いにはいい答えが思いつかなかった。
「ボクね、ハトリの役に立ちたかったから、それで早く大きくなりたくて、たくさん食べるようになったんだ。」
初めて聞く話に、ハトリは少し驚いた。
そういえば幼い頃のシグは小食だった。幼体の獣人にふさわしい食べ物が与えられていないのだろうかと、当時は悩み明かしたものだった。
「何日も歩き詰めで足が痛くても、ハトリが一緒にいたから我慢できたんだ。熱が出た時も風邪をひいた時も、ハトリの薬だったから苦くてもちゃんと飲めたよ。初めて狩りをしたのも、お腹を空かせたまま仕事してるハトリに美味しいものを食べさせてあげたかったからだ。」
体格に恵まれなかったハトリには、荷物を持ってシグまで背負うなんてできず、手を繋いでゆっくり歩幅を合わせてやるしかできなかった。
シグは無茶の多い子供だったので、ちょっと目を離した隙に川に落ちたりして、寝込む日だってあった。寒いのが苦手なのに防寒具は嫌いだし、ほとほと手を焼かされたものだった。
初めて兎を狩ってきた時のシグの誇らしげな顔だって、ハトリは今でもよく覚えている。早く食べようとしたせいで血抜きが足りず、アクが多い残念なスープになってしまったけれど、とても美味しくて温かかった。
「ハトリがボクのことを考えてくれてるのはわかったけど、ボクもハトリのことを考えてる。ボクにはハトリを幸せにすることはできないの?」
「シグ……、」
しかしハトリには、できないのだ。
育て親としてシグのことを長く慈しみすぎた。
運命と恋はイコールではない。運命の出会いであったと今も疑わないが、それは番としてではない。
幸せにしてやることを考えたことはあっても、その腕に抱かれる日は、今のハトリには認められない。
耳飾りを取り上げ、親元に返さず、汚いことをして一緒にいる。せめてシグの前では綺麗な良い親のままでいたいのだ。
しかしそれはすべてハトリの都合。
「それができないならっ、」
シグとて毛むくじゃらだからといって愛玩動物ではない。
綺麗なところも汚いところもある、利己的にして刹那的な、生き物だ。
「ボクは……、ハトリが好きすぎて食べてしまうかもしれない……!」
力で敵うことのない獣の手が、白い胸の覗く服の襟ぐりを掴む。
見たことのない灼けたぎらつきをしたシグの視線に捕らえられていながら、その双眸に映るハトリはいっそ無垢なくらいにきょとんとしている。
思わぬ事態を理解しかねるかのように。
「そしたらハトリはずっとボクのものだもの!!」
シグの言葉が、『抱く』という意味なのか『捕食する』という意味なのかは、誰にもわからない。
雌雄の営みをまだ知らないのだから、オメガの香気に昂ぶった欲について、表現に苦心した結果の言葉の綾だったのかもしれない。
だがハトリには、酷く魅力的に聞こえてしまう。
未来とか運命とか関係なしに文字通りの糧となれたなら、何ひとつ悩むことなく一生一緒に居られるのにと。
「……いいよ。」
儚いくらいに薄く笑んだのは、清く優しい育て親としては失敗だっただろう。
それが本心の言葉だと、シグは獣の目と耳で理解してしまった。
言い知れぬ渇望が身体の底に渦巻くのは事実でも、『食べる』なんていけないことだ。間違っている。育て親としてでも、諭して止めてくれるものと期待していたのに。
「……ハトリの馬鹿ッ!!」
クシャと泣きそうな顔になったシグが育て親の襟ぐりから手を引けば、爪が引っかかり布はわずかに裂けた。しかしそれだけだ。
脱がすとか押し倒すとかそんな性的な衝動には今一歩届かず、走って部屋を出て行ってしまった。
「シグ……。」
騒がしく叩きつけられた扉を茫然と見つめるハトリだって、シグがこらえたのだろう情欲の熱の苦しさは身をもって知っている。
あのまま押し倒してくれればよかったのに。熱を持て余す身体に耐えきれず、かすかに交接を願ってしまった自分が許せない。
それはシグに相応しい愛ではないというのに。
大事にしてきた子を本能のまま絡み取るなんて、望まない。望んではならない。だから……、だから、そう。
薬を飲まなければならないのだった。
吐く息は熱く、喉が焼けるか溶けるかしてしまいそうだ。否応なしに切なく痺れた腰にはもうろくに力が入らない。
血潮の流れひとつひとつが肌の裏側で騒ぐたび、慰撫と抱擁の享受を望んでしまう。自分で自分を抱きしめたところで、たとい血が出るほど爪で掻きむしったとて、この熱望は己で満たすことはできないのだ。
受胎だけに徹底的に特化するヒート期の呪縛は、一人で耐え忍ぶなど最初から不可能なのだから。
(まずい……、苦しい。)
薬を飲んで、それが効くまで、この苦痛は終わらない。
奮起した気になって立ち上がり、壁伝いに薬箱を目指したものの、目的を果たすことはハトリには叶わなかった。
さっき出て行ったと思ったばかりのシグが戻ってきた――扉の開 け閉 ての音に、ハトリは最初そう思った。
「なっ、」
うまく開かなくなった目にも、部屋に押し入ってきたのがシグではないことはすぐわかる。
「誰ッ、やめ……ッ!」
言葉ひとつ発することなく襲いかかってきた不審者の手で猿轡を噛まされ、分厚いなにかを被せられ、それはほんの瞬きの間の出来事だ。
抵抗の術もなく、ハトリは窓から外へと拐われた。
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