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7.命は平等でないのだから

 どこか狭い場所に投げ込まれてから、被せられた袋越しに聞こえたのは馬の嘶き。恐らくは馬車にでも乗せられたのだろう。  ただでさえ発情した身体は熱に浮かされて苦しいというのに、手荒な扱いを受けた上に窮屈な思いをさせられ、今ではぐるぐると眩暈が凄まじい。上と下さえよくわからない。  だが何が起きているかはわかっている。この先に待つのが己の死であると、理解できないはずがない。  あるいはこれこそ、十三年前の自分の行いの報いであるのかもしれない。  時間の流れさえわからず、じっと縮こまって苦しさに耐える。  汗と唾液で生温かく湿った猿轡はぐちゅりとして気持ち悪い。できるだけ噛まないようにと思っても、馬車が揺れるたびに身体はビクンと強張り、嫌な感触を味わった。  嘔吐(えず)けば更に苦しいだけだ。せめて呼吸を整えようと、震える肺を叱咤して、薄い空気を鼻で求める。  賢明にやり過ごそうとしたところで報われない結果になるとわかっていても、ありとあらゆる刺激が今のハトリの身体には毒だった。  いまだかつてなく心臓も騒がしいけれど、こうなってなお我が身以上に気がかりなのはシグのこと。 (シグは、どうなるだろう……。)  まさかあんなやりとりが最後になってしまうなんて。あの子はきっとさぞ傷つくだろう。  しかし身を引くタイミングとしては最良だったかもしれない。なにしろ街道を半月も引き返せば、馬車を出してくれたあの若者とその妹が迎え入れてくれるはずだ。  オメガの忌むべき歴史を知らないシグは、育て親が拐われたとは思わないだろう。むしろ置いていかれたと思うはず。  砂漠にいるであろう肉親について伝えられなかったことが悔やまれるが、なんとか幸せにやってくれるものと信じたい。 (里を下りたのは、最初からあの子のためだ。役目を果たしたのだとすればもう……思い残す、ことは……。)  ここに放り込まれて数時間は経っただろうか。夏場の通り雨のあとかというほど服は汗で湿りきり、ハトリは既に意識が朦朧としていた。  馬車が止められてすぐさま再びぞんざいに担ぎ上げられ、運ばれた先の硬い床に放られた衝撃で目が覚める。  覚醒は同時に、終わりの見えない発情の苦痛も呼び起こす。 「んんッ! ぐ、うっ……、」  脳裏によぎったのがシグの顔だったのだから、自分から突き放しておいて世話のないことだ。  被されていた袋をナイフで裂いて剥ぎ取られ、高いヴォールトの天井に吊るされた角灯で目が焼けた。 「これがオメガなの?」  最初に聞こえた声は女性のもの。古式ゆかしい悪事が今なおこうして伝わっているのかと思うと、ハトリには吐き気のする話だ。 「はい、お嬢様。お見合い前に見つかったのは幸いでしたね。」 「私にはよくわからないけれど……、まだ採れるのね?」 「勿論です。初物に違いないでしょう。」  オメガが放つ発情の香気はアルファを誰彼無しに引き寄せる。そしてどの国でも、上流階級はアルファが多い。  だからアルファの貴人に見初められるべく、オメガのフェロモン腺から香水を作ろうなんて考える者が現れたのだ。まるで麝香鹿(じゃこうじか)の如き発想で。  恐ろしいことにその悪魔の発想は机上論では済まなかった。高度な技術が必要となるが、実際に薬効があったのだ。  それをきっかけにオメガ狩りで財を蓄えた者は大勢いた。買い求めた者のほとんどは貴族の血を引くベータの娘たち。  だから商人や貴族の間ではオメガに関する知識が比較的残っている。 (あんなナイフじゃ人の解体なんて綺麗にできないのに。)  オメガを家畜か何かとしか思えない連中だ。手にする得物も、獣の血抜きに使うような雑な刃物。暗くてはっきりとは見えなかったものの、影の形でそれだけはわかる。  やっぱり誰も幸せにはならない結果が待っているようだ。ハトリも薬師なので、どうせならきちんと薬にしてほしいなんて倒錯気味な感慨を覚えてしまうが。  それでも無駄死にではない。  いつかこんな日が来るかもしれないと、最初からわかっていたけれど。  シグは無事に生きている。これからも、生きていくのだから。 「早くやってちょうだい。」  まるで侍女に化粧の支度をさせるような口ぶりだが、オメガの香気を所望したこの女性にとってハトリはまさに化粧品の材料だ。  令嬢が臆すそぶりもなく先を急かせば、ナイフをかざした男の影が迫り来る。 (シグ……どうか、元気で。)  痛みを覚悟して、目を閉じる。  恋しさがそうさせたのか、なんなのか。  最期に聞こえた幻聴は、愛しい声をしていた。 「ハトリ、目を閉じてて。」  目蓋の裏の闇が終わりの昏さと信じて疑わなかったハトリは、それに従うのみだ。  終わりを意識して全てを捨てた途端、耳鳴りと共に谷底へ屠られた心地で気が遠くなった。  たとえその目蓋一枚の向こうで、獣の爪が肉を裂き、鋭い牙が骨をしだこうとも。  血溜まりの水音と匂いと、劈く悲鳴とその残響すら、自分のものか、他人のものか、ハトリにはちっともわからない。 (人ってこんなに脆いんだ。)  引き裂かれたドレス、割れた角灯、落とされたナイフ、人が(たお)れて床が揺れる。 (それに、汚い。)  暗闇の中でも金の瞳は全てを見る。  自分と同じ赤い血を持つはずの生き物の、か弱さと卑劣さ。  人の世で命の価値は必ずしも平等ではないと、育て親の薬師は言っていた。きっとその通りだ。  それでも、血の泡を吹いた口で誰かの名を呼んで息絶えた娘の姿には、少しだけ良心が痛む。  だがどうして我慢などできただろう。  害されそうになったものが大事なものであるほど、敵を討つべくして瞳孔が開く感触がした。視界がクリアになるほど感覚は冴え渡り、身体が勝手に咆えて駆けた。どうしてこの衝動を抑えられただろう。  その大事なものは言うなれば自分の半身みたいなものであり、それの死は紛うことなく自分の死と直結していた。そう感じ取った。  人を殺めれば自分もまた汚れてしまう。そうとわかっていながらもこの時、シグには恐怖はない。  目の前で運命を絶やされるよりは、よほど。  だからきっと、これで良かったのだ。

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