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8.香る薬師の運命は二度動く

 心地よい涼風に頬を撫でられながら意識を取り戻し、ハトリは不思議に思う。あの世とは、案外現世と変わらない匂いがするのだなと。  どうせ全て終わった後だ。無理に目覚める気になれず、枕に頬ずりしながらうんうんと唸る。それが早合点であると気付いたのは、頭上から声が降ってきてからのこと。 「気がついた?」 「……っ!!」  もしここがあの世だとするならば、その声だけは聞きたくなかった。ぎくりとした瞬間、止まったはずの心臓がやたらと跳ねて苦しくなる。 「シグ……!?」  無理矢理だろうが重い目蓋だって開いた。咄嗟に起き上がれば、くらり。まだ強烈な眩暈が残っている。  見かねたシグの手が強引に誘ったのは胡座(あぐら)の片膝。枕があると思ったら、どうやらずっと膝を貸されていたらしい。  川が近いのか、せせらぎの音がする。  新芽の香を孕んだ清い夜風と水の甘さに混じり、かすかに血の匂いが鼻をつく。  星空を背負って覗き込んでくるシグが何をしてしまったのか、気を失っていたハトリにもわかってしまった。 「勝手に食べられそうになって、ハトリは困った人だね。」  食べられる? その表現には一瞬理解が追いつかなかったが、人間の解体なんて場面はシグの目には料理の一幕にでも見えたのだろう。  直前の会話があんなだったこともあり、こんな場面でもハトリはかすかに笑ってしまう。 「どうして……、気付いた?」  熱に浮かされて焼けた喉では言葉もうまく紡げない。短く尋ねられたシグは「わかるよ。」と言って鼻をすんすん鳴らす。オメガの香気を追ってきたのか。 「ボク、ハトリに会う前のことなんて何も覚えてないけど、そういえばあの時はこれと同じ甘い匂いがしたから、それを追って森に入ったんだよね。急に思い出した。」  そんな馬鹿なと、反論ならばいくらでもできた。オメガの香気が山向こうまで届くとも思えないし、出会った時にはヒート期ではなかった。  けれど。 「あれもハトリの匂いだったのかも。」  そう言って満足げに納得しているシグを見上げていると、ハトリは初めて心が軽くなる気がした。  何も知らない幼いシグから故郷の手がかりを奪い、そこまでして傍にいたいと望んでしまった罪が、初めて少しだけ許されたような気すらしてしまった。  それとて自分勝手な話だ。だが互いに出会うべくして出会ったのならば、もう仕方ないではないか。 「一人で旅なんて、やめなよ。危ないよ。」  育て親らしくない幼気(いたいけ)な表情で静かに涙したハトリを、今になって身の危険に恐怖しているとでも勘違いしたのだろうか。  シグはハトリの頭を柔らかく撫でるが、本当はそんな余裕ないはずだ。  どれだけかはわからずとも、ヒート期のオメガを傍に置いて若いアルファが平気なはずがない。理性を蝕む本能の燻りはいかほどか。 「お前……、まだ僕を食べたい?」  潤んだ瞳をして問いかけたハトリから、シグは顔を逸らしてしまう。かつては柔らかく頼りなかった首も逞しくなったものだ。黒毛はしなやかに月光に濡れている。  初めてハトリは、育て子に男を見た。 「僕はお前が思うよりずっと、汚い人間だよ。お前欲しさに……、酷い隠し事をしてしまった。」  今更故郷の話なんてされても、シグは困るだろう。やり場のない困惑が怒りに変わろうと何も不思議はない。 「聞けば僕を食べたいなんて、思わなくなるかもしれない。殺したいとすら思うだろう……。」  運命の前では、善行も悪行も関係なかった。  我が身を投げうちそれに従ったハトリは、シグの命を救いもしたし、シグから本当の家族を奪いもした。  罪滅ぼしで優しくしたことなんてない。全てはただただ自然なことだった。――この子は僕のものだと。 「僕はね、お前に大事にしてもらう資格なんて、ないんだよ。」  罪の意識はあったが悔いはない。  綺麗な笑みを浮かべて語ったハトリの態度がその証左だ。  そしてシグにも、被害者の意識はない。決して考えや想像が至らないせいではない。  自分欲しさに罪を犯したとハトリに言われて、嬉しくないはずがない。  人の汚さに辟易したばかりであっても、ハトリの罪ならばいくらでも受け入れることができる。  その気持ちが愛という名をしているとは、若いシグはまだ知らなかったが。 「今のボクは、欲しくないの?」  そんなわけはないと首を横に振って見せられれば、それだけで十分だった。 「じゃあ、……食べていい?」  期待する口ぶりで尋ねられて、ハトリに抗う気持ちなんて欠片もない。有り難くすらある。  かつて彼も、運命に突き動かされて一線を越えた。  今度はシグがそうしてなにかを変えるのだろう。  答えを待てないとばかりに耳を舐め上げられ、受胎を望んでいる身体には甘美な震えがぶるりと走る。 「いいよ。」  蜜の吐息で告げられた答えに若い獣は耽溺した。  知識としては何も知らずとも、シグは本能でするべきことをわかっていた。  ハトリの肌に浅い傷を付けながら不器用に服を脱がし、露わになった白い肌を濡れた鼻と薄い舌とでくまなく確かめる。 (いい匂い。)  幼い頃には無邪気に抱き付いたはずの細い身体。あの頃は全てに手が届かなかったことが何故か悔しくてたまらなかった。  今こうして真に手が届くようになった今、シグはかつてなくハトリを傍近くに感じている。 「っ、はあ……、」  こぼれる甘い嬌声。ぴくんと跳ね上がる肢体。どれもこれも、初めて知るものばかり。  世界で一番ハトリのことを知っているのはボクなのだと思い上がっていたこれまでの自分を、今のシグは哀れにすら思う。  育て親は秘密の多い人なのだと、本当はわかっていた。理由なんてものはなく、獣の勘で。  真実を教えてもらえない寂しさはいっそ恐怖にも似ていた。このままではいつか一緒にいられなくなってしまう日が来てしまうのでは、と。  一緒にいられないなんて、可愛いすぎる言い方だ。もっと正しく言葉にするならば、取り逃がす。ハトリ以上の存在なんてこの世にないと、最初からわかっていた。  唯一一人の家族。だから掛け替えがない。そういう理屈が、ありきたりすぎて鬱陶しく感じられるくらいの底深い衝動。  それが弾けた時に自分がハトリに何をするのか、今までずっとわからずにいた。  食べてしまうのかもしれないと思いもしたけれど、本当はもっと単純だ。 「んうっ、」  ただひたすらに、確かめるだけ。  自分が欲しいと思った人が、組み敷かれた時、舐められた時、甘く噛まれた時、抱き締められた時。どんな顔をしてどんな声で鳴くのか。  誘うように甘い香りが立ち昇る。暴くべき場所はそれが教えてくれる。  夜露に濡れた草いきれに押し倒され、ざらつく薄い舌で味見をするようにそこかしこを探られ、ハトリもまた自分の知らない自分を内に見た。  アルファのシグとの運命を信じながらも、身体を蝕む劣情だけは今まで受け入れられたことはなかった。疎ましく思い続けていたオメガの性は、少しの慰撫で信じがたいほどの快楽を身体と脳に焼き付けてくる。  あれだけ欲しいと思ったシグの手で明かされていく新しい自分。運命のしもべであることを選んだハトリにとって、それを拒絶するのは理に反する。  快楽を受け入れる。沈んで溺れて行きつく先に何があるかは、これから二人で確かめればいい。足を開くのは自然なこと。  会話もないまま獣そっくりに貪られているようでいてその実、今まで知らなかった自分と、今まで知る由もなかった相手とを、新たに互いに知っていく。そういう営みだった。  甘露滴る男根を獣の口が咥えるのも、双丘の狭間(あわい)で潤んだ秘部を薄い舌が舐めるのもそう。当たり前のように隣にいながら、近いようであまりに遠かった恋しい人の、全てを知るための行為。  果たして繋がろうかという間際になり、固い欲の塊と潤む秘部とを擦り合わせたまま胸と胸を重ね、シグはハトリの白い首筋をぺろりと舐め上げた。 「っ、は……、シグ。」  黒い毛並みに逆らうようにして背を撫で上げたハトリの熱い手が、豹顔を掴む。 「ん。」  そうして唇を求められた拍子にシグが思い出したのは、昔ハトリに読んでもらった御伽噺。  そこに出てきたお姫様のほとんどは、幸せなキスをしてハッピーエンドだった。  同じことを求められているのだから、きっとハトリも今幸せなのだろう。でもシグには、ここで終わらせるつもりなんてない。  お姫様にだって幸せにくらしていく未来があったのだから、このキスはきっと終わりじゃなく、始まりを告げている。 「ハトリ……。」  育て親すら聞いたことがないほど切なく名を呼ばれ、ハトリはうっそりと、月明りの下で艶やかに笑んだ。 「もっと、近くにおいで。」 「……うん。」  太ましく滾る熱で(なか)をゆっくりと穿てば、柔らかな温かさに包まれる感触に若い雄は恍惚と息を漏らす。  ゆっくりと、更に奥をと求めるほど、愛しい人は身を捩り甘く鳴く。我が手で暴いたその痴態を誰にも見せぬようにと、シグはなおのこと固くハトリを胸に抱き締めた。 「はあ、っ……あ……、」  非力な指で背の(たてがみ)に爪を埋めたハトリが必死にしがみついてくるほど、接合は深くなる。  すぐそこで仰け反る白い喉がやけに艶めかしく、シグは鼻を寄せた。脳が痺れるような甘さに理性が白む。  甘噛みを繰り返し、繰り返し、髪の毛先をかき分けながら(しるべ)の香気に誘われて首を伸ばせば、シグの肩へハトリが額を寄せた。 「アッ……!!」  ガリリと鋭い牙がうなじの肌にめり込み、熟れた果実の蜜に似た血がかすかにシグの舌を濡らす。 「はっ……、ああっ、あっ、」  痛い思いをさせたかと心配したものの、ハトリはむしろ食らってくれと言わんばかりにシグの頭を強くかき回し撫でてくる。  何をされても構わないと、全身全霊を差し出されているのは明らかだ。 (だってハトリは、ボクのだものね。)

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