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第6話 男の手
でもさ、手間はたくさんかかるくせに、そんなに儲からない仕事、田舎の一軒家、ご近所付き合い濃厚です。
なんてところに来たいと思う女性は珍しいでしょ。
それに加えて、三十四歳、独身、彼女、いない暦イコール年齢。
「うわぁ……すごいな、僕のプロフィール、けっこう悲惨なことになってない?」
ほら、なんだか、条件並べただけでとても絶望的だと思う。うん。
「……」
女性に好まれそうな、男らしさもないもんなぁ。
――あんた、細すぎ。
そりゃあそうでしょうよ。育ち盛りの高校三年生に比べたら、もう成長のしようがないんだから。
「郁が、大きいんだよ……」
お風呂から上がった僕はひとり、鏡の中にいる、細くて白くて、ひょろりとしたアラフォー手前の独身男に向かって、そうぼやいた。
自分のプロフォールを並べたら、そりゃたしかに悲惨かもしれないけれど、悲観したことは一度もないんんだぞ。って、逆にそれを悲観しないほうがダメなのかもしれないけれど。
「いくー、お風呂、上がったよー」
童貞どころか、キスもしたことないなんて、普通はそれを悲惨だと思うんだろうなぁ。なんて、他人事のように思っちゃってるし。
「おーい、いくー!」
郁の部屋と僕の部屋は二階にそれぞれある。階段の下から上にいるはずの郁に声をかけた。
「おーい、郁、入るよ? ……お風呂どう、ぞ……」
早く入っちゃいなさいって、言おうと思った。
「……」
ノックをしても返事がないと思ったら、眠ってしまっていた。僕が高校生まで使っていた勉強机でお古なんだけれど、それがいいって頑なに新しいのは買いたがらなかった。そこに突っ伏して眠ってしまっている。
大きな背中だった。
そっとその背中のほうから回りこむように、忍び足で近づいて、そーっと、その寝顔を見てみたかった。
「どれ、どんな勉強を……って、何これ、数学?」
僕も高校三年生の時があったはずなんだけれど、こんな難しい問題解けてたんだっけ? そもそも問題文が何を言っているのかわからないくらいに、ちんぷんかんぷんだ。
bの始点から終点までの距離を求めなさいって、言われたってさ……だよ。
でも、郁は解けるんだね。
解答で郁が言ってることも、三十四の僕にはちんぷんかんぷんだ。
「……」
もう僕よりも背が大きくなってしまったけれど、赤ん坊だった頃を知っているからか、なんだか不思議なんだ。大人びた髪型も、輪郭が男らしくなった横顔も、その低い声で話す度に上下する喉仏だって。あのミルクの甘い香りがしていた郁とは大違いすぎて、たまに不思議になる。
「……」
まるで、男、みたいで。
だから、寝顔はどっちなんだろうって。男なのか、僕がオムツを替えてあげていた、まあるくて甘い香りのした郁なのか。
どちらなんだろうと思ったら、どちらでもなくて、見つめてしまった。
少年だった。
緩く開いた唇から零れるような寝息は穏やかで、カッコよくなっちゃってあどけなさなんてちっともなくなった目のとこが見えないからかな。
郁の、黒い瞳が、見えないから――。
寝ちゃてる。
机に突っ伏して、寝てて。
――文っ!
いつも僕の鼻を摘んで起こすんだ。びっくりするからやめてって言っても、不敵に笑って、ちゃんと朝起きない文が悪いんだって。
――おはよ―。
乗っかられるのだって、重たいのに。
――ふみにーちゃん!
小さい頃はぴょーんって飛び乗られたって大丈夫だったけれど、もう、今は重くて、胸のところが苦しいくらい。
「っ、ん……」
夢でも見てるのか、ぎゅっと眉をしかめて、唇をきゅっと結んだ。
もう、小さい頃の郁じゃない。高校生で、背が高くて、大きな背中で、なんだか大人びた髪型をした、男、みたいな郁。
きっと、女の子にも人気があると思う。女の子に、モテると、思うんだ。そのうち、彼女だってできて、もしかしたら、もう、いるかもしれない。前に訊いたことがあるけれど途端に不機嫌になって、そんなのいねぇよって、言ったから、前は、いなかったけれど。最近はどうだか。
知らない、から。だから、もしかしたら、今は彼女がいるかもしれない。彼女がいたら、もう、キス、とか……して。
「ぅ、み」
「!」
無意識だったんだ。無意識に手を郁へ伸ばしてしまっていて、触れてしまっていた。
そしたら、郁が誰かのことを呼んで、慌てて手をどけた瞬間――その手を掴まれた。声も出ないくらいに驚いて、掴まれたのは手なのに、心臓が鷲掴みにされたみたいに、大きく揺らぐ。
「あっ……え、ぁ、文?」
郁が黒い瞳を見開いてびっくりしていた。
「ご、ごめっ」
僕はそんな郁に驚いて、仰け反って、でも、手首を郁がすごい力で掴んでくれてたから、尻もちをつかずに済んだ。
「あ、あの、お風呂、どうぞって」
「……」
「寝てたから」
「ごめん。驚いた」
「うん」
「風呂、だっけ?」
「あ、うん」
「ありがと」
「……うん」
着替えはもう用意してあるって言ったら、また、ありがと、って言って、ツーブロックにした前髪をかきあげた。そして、深呼吸よりも浅く、でも大きく息を吐き、僕を残して、お風呂へと向かった。
「……」
手が。
「……びっくり、した」
手がジンジンする。
郁が掴んだ手首のところがジンジンしてる。
「……み」
郁が寝言で言った言葉、名前の欠片を自分で口に出して、そして、唇に手で触れる。ただの唇。けれど、さっきはきゅっと結んであった郁の唇に誰かが触れたことはあるんだろうか。
あるのなら、それは……。
それは、誰なんだろうって、ふと、考えていた。
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