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第7話 「み」
――み。
「ゆみ、くみ、るみ、あみ……」
「なみ」
「あー、なみ、なみもあった、って、うわぁぁ!」
いきなり独り言に割り込んでくるから、会話してしまった。
「まいどー」
成田さんだった。今日、午後から取引先の呉服屋さんが来るからと桜の花びらを掃き掃除していたところに、注文していた染料を持っていてくれた。
掃いても掃いても、風が吹けばヒラリと舞い落ちてくる花びらにもういっそのこと、桜色の絨毯ってことにしてしまおうかと思いながら、昨夜、郁が寝言で口にした「み」の付く名前を並べていた。
「ご注文いただいた染料を届けに来ました。これ、伝票っす」
「す、すみません。今、ハンコ押してきます」
「はーい。そしたら、俺、この染料倉庫に運びますよ」
「大丈夫です! 今、戻りますからっ」
車が路駐だろうから、あまり離れないほうがいい。田舎の路地で駐禁切符を切られることはないだろうけど。
「あぁ! 大丈夫ですって!」
次の取引先にも行かないといけないだろうし。もしも万が一にも、駐禁切られたら大変だろう。
「は、運びますからっ」
それに、女性の名前を羅列してたの聞かれちゃったし。ただ名前を羅列してただけじゃない。誰にもわからないけど、僕自身はさ、それが郁の寝言で口にした誰かの名前ってわかってる。夢の中でも呼んでしまうくらいの子がいるって考えて……って、何をそんなに気にしてるんだろうね。僕は。そこは郁のプライベートでしょ。
「別にこれは運ぶくらい、取引先の染料屋がやってくれた、ラッキー、くらいでいいっすよ」
「そ、そういうわけには。お手数ですから」
誰、なんだろう。ゆみ、くみ。
「……今、いないんすか?」
「……へ?」
るみ、あみ。
「お付き合いしてる人、とか」
あと、なみ、も。
「この前、言ってたでしょう? そういう人いないって」
「……」
うみ、とか?
「ぁ、あー、僕、ですか?」
いる、だろ。普通に考えて、郁なら彼女くらいいるだろう。顔もいいし、背丈もあって、男らしくて、同級生の女の子にしてみたら、とてもカッコいいだろうから。
彼女の一人や二人くらい、いる、か、もしくは、いた、に決まってる。
「はい。いないんすか?」
いるに決ってる。現に名前を呼んでいた。どんな子? 髪は長い? 短い? おしとやか? 可愛い? 美人? 優しい子、だと思う。きっと飛び切り優しい子。郁に釣り合う優しい子。
じゃあ、その子と――。
「恋人、みたいな人」
キス、とか。
「いないんすか?」
して――。
「い、いませんよー」
いないでいたらいいのに。
「恋人なんて作る暇もないです。仕事、楽しいし、忙しいしで、もうてんてこまいなので」
え? なんで、今、いなかったらいいのにって、思った? 誰に、何が? 誰が?
「あ、ありがとうございます! あの、ハンコ、伝票に押しましたので」
「え、あっ! 相馬さん!」
誰がいないといいと思った? 何が、なかったらいいと、思った?
そのハテナマークに対する答えの輪郭がぼやけた状態から、今、しっかりした線になりかけて慌てて逃げ出した。頭を振って、目をぎゅっと瞑り、その輪郭を力任せに消し殴った。
何、考えた? っていうか、なんでそんなに気にしてんの? 何を、僕は。
「文?」
「っ!」
その声に飛び上がった。門のところ、制服姿の郁がいたから。紺色のニットにもう三年生なのにネクタイを適当に首からぶら下げて、走って横切る僕に目を丸くしている。
「どうした?」
「……ぁ」
「文?」
「おかえりなさい、えっとー」
そこに置き去りにしてしまった成田さんが追いかけて来て、郁に対しニコリと笑った。
「……どーも」
郁が低い声でそう雑な挨拶をする。成田さんはその挨拶にすらニコッと笑って大人の対応をしてくれた。
「い、郁、早かったね」
「そう? いつもどおりでしょ」
「あ、そう? そっか」
いつもどおりだけれど、いつもどおりでいいの? 彼女を送らなくていいの? み、の付く名前の彼女。
でも、その、彼女の気配すら見せてはくれない。元からたくさん話すほうじゃない。りょうちゃんと違って、郁はどちらかといえば寡黙だ。でもたった二人っきりなんだから、話してくれてもいいのに。それともわからないから?
「成田さん、ありがとうございました。また注文の時はお願いします」
「はーい。それじゃあ、また」
わからないって思ってる?
郁が解いていたあの数学の問題みたいに、三十四歳で、恋人がいたことが一度もない僕じゃそういうのわからないって思ってる?
「文?」
キスも何もしたことのない僕になんて、話してもわからないと?
「社長―、相馬社長」
「あ、はいっ」
「お客様お見えです」
「はいっ! ごめんなさい! 今行きます」
そう、思ってる?
「……ふぅ」
商談が終わり、事務所に戻った途端に大きな溜め息が零れた。繊細な商品だから。こういう打ち合わせは本当にどっと疲れるんだ。
「……はぁ」
ふぅ、はぁ、へぇ、はぁ、溜め息がとめどなく溢れてくる。
「でも、葡萄色にしてよかった」
褒めてもらえた。いや、そういう気持ちで挑んでるうちはダメなんだろうけど。もっと、こう、しっかりと、うちはこの色、自信持って染め出してます! くらいじゃないとダメなんだろうけど。
染料の調合から、色出しの加減、糸の組み合わせ方、もちろん柄のデザイン。それはとても大変な作業になる。溜め息の一つや二つ、三つや十、くらい出てくるよ。
工場の施錠するのだって、もう後回しにして、このまま机に突っ伏して寝てしまいたくなる。
「?」
従業員二名、そんな小さな工場で、古びた机に古びたファイル、に古びた椅子。でも、その机にキラリと光る銀のボール、じゃなくて、お菓子だ。銀紙に筒まれた。
「チョコレート」
それと、うちの電話の横にあるメモ帳の切れ端。
『お疲れ様。晩飯、作ってあるよ』
「……」
郁だ。これは郁の字。郁の優しくすらりとした縦長、斜め右上がりの字。
「……美味しい」
銀紙を広げて、ブラウン色をした一粒を食べると甘くて美味しくて、中のアーモンドが香ばしかった。
目を閉じながら、また一つ零れた溜め息は疲れとかじゃなくて、ほぅ、と、気持ちがゆっくり地面に寝転がるような、そんな溜め息に変わってた。
郁のくれたチョコ一粒に癒されて、そして、郁のご飯が早く食べたくなる。そう思った瞬間、思いきり威勢良く鳴る腹の虫があまりに素直で、笑ってしまった。
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