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第9話 嘘
郁の顔が近くにあることに、動揺することなんて、ないだろ? だって、赤ちゃんの頃から知ってるのに。何に今更戸惑うんだ。
「後ろ、バケツ」
「あっ……ごめっ」
チラッと振り返ると花火の残骸が入ったバケツが僕の足元にあった。蹴り倒しても、僕の足がそこに浸かっても大惨事には違いない。
「ギリセーフ」
はぁ、と郁がついた溜め息を感じた。ったく、って笑って、そして、支えてくれた郁の手の熱が背中に伝わる。
「線香花火だっけ? ろうそくもうねぇから。ライターで直になるけど」
「あ、うん、でも、危なくない?」
「平気。ほら、文」
僕には少し硬くて大変だったライターで郁が火をつけてくれた。
「ね、線香花火ってさ、なんだか逆な気がしたことない?」
「?」
「他の花火って、この和紙の部分を火につけるのが多いでしょ?」
だけど、線香花火はその和紙の部分を手に持って、ぶら下げる。ゆらりと揺れる先を火にかざすのは小さい頃ちょっと苦手だったんだ。
ジリジリと小さな音を立てて小さな火花が咲いて、線香花火がいじらしいくらいに小さな火を膨らませる。まぁるく、ぷっくりとして、郁の小さな頃のほっぺたみたいに赤くて。
「文」
「?」
小さな頃はすごく可愛かった。
「桜の花びら、頭のてっぺんについてる」
郁の手がスッと伸びてきて、僕の頭上に落ちて来た花びらを取ってくれた。
「……」
気がつけば、背も手の大きさも、僕を追い抜かしてしまった。まあるく赤いほっぺたは見る影もなくシャープな輪郭は――まるで。
「あ、ありがと」
俯いたら、その拍子に、赤くてまあるい小さな火がぽとりと落っこちて、郁が、僕の負けだと笑った。
「嘘……」
今度は郁の手元でパチパチ膨らんでいた火が落っこちて、地面に転がった。
「え?」
「花びらなんて落っこちてなかった」
「……」
そして、ろうそくもなくて、真っ暗になる。
「ただ、文に触りたかったっつったら、どうする?」
「ど……」
どうするって、そんなの。
「触りたかったっつったら」
そんなの、どう、するんだろう。
でも答えを探してると、郁の手が暗闇の中、すっと目の前に来て。髪に触れた。さっき、転びかけた僕を片手で捕まえられる力強く大きな手、僕じゃちっともできなかったのに、いとも簡単に火をともせた指先で、髪に――。
「文」
「……」
「あのさ、俺」
「あらぁ、花火?」
林さんだった。ボールが投げ込まれたみたいに、いきなり飛び込んできた声に慌てて立ち上がる。しゃがんでたから、少しだけ、クラっとしたけれど、笑いながら、倉庫で見つけちゃってって、笑って答えられた。
夜分にすみませんってお辞儀をして、バケツを持つと、郁も立ち上がり、もうすでに終わっていた線香花火の残りかすを放り込んで、バケツを持ってくれた。
「俺、行ってくるから」
「あ、うん」
すでに林さんの興味は薄れたんだろう、庭先から顔を引っ込めていなくなっていた。
「……嘘って」
なんの嘘なんだろう。花びらが頭にくっついてるなんて嘘をついたりして。
「……」
どうするって、なんだよ。
「……びっくりした」
ただ心臓が飛び跳ねて、今、一人なのに、風に舞い上がる桜の花びらみたいに、胸のうちが騒がしくてさ。だから、その時はあまり気にしてなかった。
郁が何かを言いかけていたことに。ドクドクうるさい心臓の音で、郁の言いかけた言葉もかき消されてしまっていた。
織物はとてもシンプルな構造をしてる。縦と横の糸を組み合わせていくだけ。縦横二本ずつの糸なら平織。それが三本以上になると斜めの線があるように見える。これが斜文織。五本以上の糸になると光沢感が増して、見栄えもいちだんと華やかな朱子織になる。そのシンプルな構造を何千にもなる色たちで織っていくことで見事な模様を持つ反物になっていく。
染め方も色々で、色彩感覚、手順の先読み、もちろんデザインセンス。そういったものを専門学校で学ぶ人もいれば、高校卒業と同時に実戦経験で修行として身に着けていく人もいる。
僕は後者だった。
十年修行を積んで、すぐに戦力になれるように。
父と母の仕事ぶりを見ていて、その厳しさを知っていたから、最初はこの仕事に就こうとは思ってなかったんだ。両親も継いで欲しいとか言ったことはない。高校生最後の年、十八までは自分がこの仕事を選ぶなんて思いもしなかった。
「うーん……」
今の、郁と同じ十八までは。
「デザイン……」
ここが決れば、あとはこのデザインに対しての設計を、つまりは糸の色配置を決めればいいだけなんだけど。けどなぁ。
「うーん」
「あの、社長」
「……」
「社長」
「! ぁ、はい!」
デザインに夢中になっていた。
「あ、あの、学校からお電話が」
「へ?」
「郁君の」
郁の? 学校って、高校の?
「も、もしもし、お電話代わりました」
『ぁ、お忙しい所申し訳ございません』
少し賑やかななノイズ混じり。学校の職員室から? なのだろうか。
「あの、郁が何か」
『あー、いえ、あのですね。今日、三者面談なのですが』
本人が一人でいいと言っておりまして。本当にそうなのかどうか確認しようと思いまして――そう、担任の先生が話す向こう側からチャイムの音がわずかに、聞こえていた。
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