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第11話 我儘
郁が、もしも施設にいたのなら十八は退所する年齢だ。郁の言っていることは、納得のいくものだった。反論できないほど、ちゃんとしたことを言っていると思う。でも――。
「でもっ、就職って、うちから」
「家は出るよ」
でも、なんで、僕は。
「家を……?」
「あぁ、出る」
雨が、降ってきた。湿った春風が雨雲をどんどん引き寄せて、いつの間にか空は灰色を濃くして、そこから、雨粒がぽつぽつと落っこちてくる。コンクリートに色の濃い染みがひとつ、ふたつって、できて。
「家は、出るよ」
気がつけば、数え切れないほど雨の染みができていた。
「出る……?」
コクンと頷く郁の前髪から雨雫がぴしゃんと跳ねたのが見えた。
「……ぁ」
十八まで世話になった。親戚ってだけなのに、優しく温かく家族として迎えてくれた。ありがとう。でも、もう十八になったから、出て行きます。今までありがとう。これからも頑張ります。
そう言って、郁がうちを出て行く。
「ダメ」
僕は、首を横に振った。ぴしゃぴしゃと雨で濡れた髪が雫を飛ばしたけれど、振り出した雨に混ざって見分けはつかない。
「ダメっ」
「なんで?」
なんで? ぁ、なんで、って、そんなの。
「すごく感謝してる。就職先ならいいとこ見つけられると思うよ。俺、成績良いんだ。このあと本格的な就職前に取れる資格も取って準備するから、安心し」
「ダメっ!」
雨雫にも紛れることのないほど首を横に振って、雨音にも掻き消されないほど、強く声を荒げた。
「なんで?」
「だって」
「だって、何? 俺、おかしいことひとつも言ってないだろ」
「でもっ」
でも、ダメだ。
「……なんで?」
なんで、なんてさ。
「だ、だって、隠してた」
「反対するだろ。進学のお金準備してるって言ってたし。けど、それは文のお金だろ? 俺のじゃない。もちろん母が残したものでもない」
「そ、そうじゃなくてっ」
なんでなんて、わからない。
「大学行ったほうがいいって、もったいないって先生も言ってたよ」
「あぁ、けど、今勉強したいものがない。見つけたら自分で学費作って通うよ」
「ま、まだ十八だ」
「もう十八だ」
でも、ダメだ。
「もう俺、十八なんだよ」
「……」
「ここまで育ててくれただけでもすげぇ感謝してる」
でも、いやだ。そんな拒否から、郁が話す度に首を横に振っていた。振って、振り続けて、郁の話すことまるごとを――。
「はぁ……」
拒否し続けていたら、突き刺さるような溜め息を吐かれた。
その溜め息に身体がビクンと反応してしまう。駄々を捏ねて、それを咎めるのも面倒だと思われてしまったような、そんな悲しさが胸を刺す。
「まともな、正当な理由でしょ? これで、納得してよ」
呆れられて、置いていかれそうな、そんな寂しさ。
「文を困らせたくないんだ」
「……な、何……困るって」
「……」
一度、郁が視線を下へと向けた。もうびしょ濡れのローファーをじっと見つめて、そして、また、視線を真っ直ぐに僕へと向ける。降り出したばかりだった雨はもう土砂降りに変わった。雨粒は大きくて、びしょ濡れになった髪から重たげに落っこちては、また新しく溜まって、落っこちて。
「もう……いいか……」
「え? 何、郁、聞こえない」
雨の音が激しくて邪魔をした。濡れて重たくなった邪魔な髪をかき上げながら、俯きながら呟かれると、聞こえない。
「もう、我儘になっても……」
「……え?」
我儘って、郁が?
「隠したのは、このまともな理由を言いたくなかったから」
「……」
「これを言って、文が、そうかってすんなり納得して、笑うとこが見たくなかったから」
郁は我儘なんて今まで一度も言ったことない。いつも素直で、優しくて強くて、おおらかだった。
「俺が本当にただの親戚のガキで、家族で、世話をしただけだったら、イヤだったから」
「……」
「けど、今、文は拒否ってくれた」
郁が一歩近づいて、僕の手を取った。びしゃびしゃと春の雨はまだ冷たくて、指先が寒いと震えてしまうほどだったから。
「就職して自立するのをイヤっつった」
「……」
「仕事をすることに納得しても、うちを出ることはすげぇ拒否した」
手首を掴んでくれた郁の手の熱さがやたらと鮮やかに感じる。
「文」
熱くて、ジンジンする。そして、郁の声が低くて、それはまるで――。
「好きだよ」
まるで、男の人だ。
「ずっと、文のことを、好きだった」
雨でびしょ濡れだ。
でも、雨のせいだけじゃなく、郁の瞳が濡れてた。艶やかに、そして、見つめられると切なくなるほど綺麗な黒をしていて、思わず手を伸ばしてしまう。その手も掴まれて、これで両手とも郁に捕まった。
郁は捕まえた手首をじっと見つめてから、一つ、深く息をつく。
「ねぇ文」
「……」
「俺は、文にとってただの親戚の子ども?」
郁と初めて会ったのは十六の頃。まあるくて、柔らかくて甘い香りのする、なんて可愛らしい生き物なんだと、この手に抱いて感動した。
「家族?」
でも、今、その時の赤ん坊がこの手を掴んでる。
「俺は、文にとって、どれ?」
掴まれたところは、ヒリつくほど熱くて、その熱が全身に広がっていくのが、雨の冷たさのせいでこんなにも鮮明に感じてしまう。
この熱の正体は――。
「郁は、僕の」
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