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第12話 触れてしまった

 郁が触れたところが熱い。手首のとこ、そこにばかり意識が向かうんだ。郁の手の大きさに、強さに、こんなにも――。 「文……」 「あれぇ? 郁じゃね?」 「「!」」  二人で飛び上がってしまった。  そこにいたのは同じクラスの秀君だった。傘を差して、手を振っている。  雨の音が気にならないくらい、郁の声にだけに気持ちがいってたんだ。一瞬で、雨音がやたらと大きく聞こえ始める。 「何? お前、傘ねぇの? っつうか、今更いらないんだろうけど」  もうびしょ濡れの僕たちを見て、秀君が笑っていた。その笑い声に張り詰めていた空気が溶けて雨に掻き消されていく。 「がんばれー! あとで、色々相談乗ってやっからなー」  そして、この空気を消すだけ消して、秀君が水浸しでもう開き直ったんだろう、ローファーでズカズカと億尾にもせず水溜りの中を歩いていった。むしろ、これでもかと水溜りの中を選んでいくくらい。 「頑張れって、あの、秀君にもしかして」 「言ってねぇよ。たぶん、進路の面談に文を呼ばなかったのとかを勘違いしてんだろ」  あぁ、そうか、そのことで僕が学校に呼び出されて、今、ここで、郁と口論してると思ったんだ。 「……ったく、秀の奴、邪魔すんなよ」 「ぁ……あの」 「ごめん、文、帰ろう」 「……」 「風邪、引くだろ」 「……」  手、繋いでる。秀君に見られちゃったかもしれない。でも、雨が強くてそれどころじゃなかったかもしれない。 「さっきの答え、うちに着いたら聞かせて」 「……」 「俺は文のなんなのかってやつ」  答え、は。 「後でいいよ」  答えは――。 「……うん」  頷きながら、僕の手首を掴む、郁の手にとめどなく落っこちる雨を見つめていた。  今、郁に掴まれたところがすごく熱いんだ。ヒリヒリして掴まれてるのは手首だけなのに、全身が火照って熱くて、春の雨くらいじゃ冷えなくて。  この熱の正体を僕はなんとなくだけれど、予想がついてる。  誰にも向けたことのない感情。 「すげぇ、全部、びしょ濡れだ」  郁がそう言って、一瞬で、びしょ濡れになった玄関の石畳を見つめて苦笑いを零した。 「郁、廊下はあとで拭くから、洗面所行ってて。着替えてとタオルを持ってってあげる」 「後ででいいよ。それより」  郁を初めて見た時、なんて可愛らしい生き物なんだと思った。毎年、桜の時期にやってきては、少しずつ成長していく郁の姿を見るのは、たまらなく嬉しかった。  可愛くて、愛しくて、大切な僕の郁。 「聞かせて」  大切な男の子。 「……俺は、文の」 「……」  たまらなく大切なんだ。きっと、それは君が思っている以上だと思う。 「好き、だよ」 「……」 「郁のこと、好きだと思う」 「それって……」  手を,放してもらえないからなのかな。耳まで熱くて、困ってしまう。 「えっと、その、恋愛、としての好き、だと思う」  でなければ、説明できないよ。郁が自立するのを拒む理由なんてさ。家族なら、親代わりなら、郁の成長をただただ喜ばしいと思うはずなのに、僕は違うんだ。  切なくなってしまう。  うちを出ていくことを引き止めてしまう。その理由がわからないほど疎くはないつもりだ。 「って、恋愛、したことないけど」 「それって、俺のことっ」  それに家族に対して、こんな気持ちにならないよ。切なくて、恋しくて、たまらない気持ち。  だから、小さく頷いた。郁を男性として見ていること、恋愛対象としての好きを向けていること、つまりは、触れ合うような行為を含んだ好きだってこと。 「文っ」 「で、でも! まだっ、ダメっ!」  抱き締めてくれる郁の肩を手で押さえた。抱き締められないようにって、手で突っぱねて、その拍子に玄関扉に背中を軽く打ちつけた。 「まだ……ダメ」 「……」  こんなに近くに来られてしまって、飛び跳ねる鼓動。けれど、俯いて、必死に今は堪えないといけないから。待って、静かにしてって、自分で自分の気持ちも手で押し戻す。 「りょうちゃん、に、顔向けっ、できない。それに、郁のこと、赤ちゃんの時から知ってて」 「はっ?」 「宝物なんだ!」  郁が、信じられないと眉をひそめて、険しい表情を一心に向けても、ダメだよ。まだ、ダメ。 「郁のこと、宝物なんだ」 「……」 「だから、高校卒業するまで、その、まだ、ダメ」  突っぱねていた手でぎゅっと、郁の肩にしがみつく。どうかどうかって、願いを込めて、振り払ったりしないでと。頭の中がぐちゃぐちゃだ。去らないで、ここにいてと強く願うけれど、これ以上は近くに来ないでって、拒む。 「僕は、もう三十四で、その、郁に比べたらおじさんだ」 「は?」 「だから、心変わりを、たとえば、高校卒業までにしてしまったら、それは、それで、って思ってる」  郁が魅力的なのなんてわかってる。もしかしたら、さっき学校の廊下で郁のことを引き止めた子も郁のことを好きなのかもしれない。少し頬が赤かったような気がする。それに何より楽しそうに話してた。嬉しそうだった。他にも郁を狙ってる子はきっといるだろう。もしもその中に魅力的な子がいて、心がそっちへ移ってしまったら。 「心変わりなんて……イヤ、だけど」  つい本音がほろりと零れてしまった。 「高校卒業まで、待って」  僕じゃない人を選ばないでと思いながら、僕を今は選ばないでと願ってる。 「文、意味わかってる?」 「え?」 「高校卒業するまでは、まだ、ダメって、何がどうダメなのか、わかって言ってる?」 「!」  郁に掴まれて滲んで染み込んだ熱が、今度は頬を熱くした。何がどうダメなのか、今は我慢するって、何を我慢するのか。 「そんな顔するってことは……わかってんのな」 「っ」  わかってるよ。どんなことを我慢なのか、わかってる。  僕は今、郁の前で変な顔をしていないだろうか。熱くて熱くてどうにかなってしまいそうだけれど、どうにかなってしまってやしないだろうか。 「ふざけんな……」 「郁」 「そう言おうと思った。好き同士ならいいだろって言って、そんな律儀なこと守れるかって、無理やりでも、って、思ったけど」  溜め息をついて、溜め息をつかれたことに僕は少しだけ身を硬くして、でも、その後に笑っている郁に、ほわりと緊張がほぐれた。 「ダメっぽい」 「郁?」 「めちゃくちゃ嬉しい。文が俺をそういう意味で好き、っつってくれたのも、まだダメってことは、いつかは抱いていいってことも、あと、俺はあんたにすげぇ大事にされてるってことも」  すっげぇ嬉しいと、また一つ溜め息を零した。 「た、大切だよ。決ってる」 「……高校卒業するまで?」 「っ……う、うん」 「そしたら、セックスしていいの?」 「!」  びっくりした顔をしたら、笑ってる。  わ、笑わないでよ。今、頭の中、すごい大変な混乱ぶりなんだから。それなのに、僕の人生の中で一度だって発したことのない単語を十六歳年下の郁が口にしたんだから、驚きもする。 「はい。質問」 「ちょ、な、何?」 「キスはしてもいいですか?」 「!」  笑って、楽しそうにして。混乱して真っ赤になっている僕を見つめる眼差しがとても優しくて、とても愛しいってなってて。 「キス、ならしてもいい?」  ゆっくり近づくその唇に心臓が破裂する。 「ね、文」 「……」  答えたら触れてしまう。頷いても、触れてしまう。 「う、ん」  僕は、頷いた。  そしたら、触れた。 「……ン」  生まれて初めて触れた郁の唇は柔らかくて温かくて、差し込まれた舌は濡れて、熱くて、僕はただ十六歳も年の離れた高校生の郁にしがみついているばかりだった。

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