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第13話 生殺し

 キス、してしまった。  あ、あんなに柔らかいんだ。唇って。びっくりした。郁の唇、冷たくなかったけれど、雨には濡れてしまったから、大丈夫だったかな。風邪とか引いたら大変だ。 「……あったまった? 文」 「!」  曇りガラスの向こう側に黒いシルエットがあった。先にお風呂に入った、というかお先に合戦の結果負けて、ほぼ僕に無理やりお風呂に閉じ込められた郁だ。冷やして風邪なんて、ダメでしょ。  自分の唇を指で押しながら、指なんかと全然違っていた郁の唇の感触を思い出していた。慌てて、バシャバシャと大きな水音を立てながら、返事をする。  平気だよって。 「……なぁ」  平気って返事をしたら、もう出ていくんだろうと思ったのに、その場に座り込んでしまう。郁が曇りガラスを背もたれ代わりに寄りかかっているのが見える。見えないけれど、くっついたその背中だけははっきりと見えて、ドキドキした。そこにいるんだっていう実感に鼓動が早くなる。  おかしいよね。  赤ん坊の頃から知ってて、湯浴みをさせたことも、お風呂に一緒に入ったこともあるのに。同性なのに。  自分が裸だってことをやたらと意識してしまう。 「文」 「な、なに?」  同性なのに、意識してしまう。郁が男で、僕も男で、そして好き合ってるって。 「俺、本気だから」 「……」 「本気で、文のこと、好きだから」 「う、うん」  のぼせてしまいそうだ。 「ずっと、文のことを好きだった」 「……」 「マジだよ。だから、家、出ようと思ったんだし」 「あっ! ちょっ、い、郁!」  色々あって、色々言っちゃって、なんか、そこをおざなりに済ませてしまっていたけれど。そうだよ。それがきっかけで、こう展開がコロコロ転がって、ここに着地したんじゃないか。 「出て行かないよね!」 「……」 「い、郁?」  就職するって話とそれから家を出て自立するっていう話。 「生殺し、なんだけど?」 「?」 「だから、うちを出ようと思ったんだし。だって、そうじゃん。すげぇ好きな人と一つ屋根の下ってさ」 「!」  つまりは、その、襲いたくなるとか、そういうこと? 「でも、まぁ、状況的には変わらないか。卒業までの生殺し」 「え、やだ……郁」 「出るわけねぇじゃん」 「!」 「進路は、もっかい、先生に頼んでちゃんと三者面談してもらうから」  曇りガラスに密着した背中しか見えないのに。表情なんてちっともわからないはずなのに、もうずっと郁を見てきたからか、わかるんだ。  きっと、笑ってる、でしょ? 優しく、少し呆れたように眉尻を下げて笑ってると思う。 「い、郁っ」 「出てかないから」  ガラスに密着していた背中が離れて、急いで追いかけてしまった。 「つか、曇りガラスでも、なんか、ヤバイ」  大きな手がぺたりとガラスの扉に貼りつく。大きな手、その手の指先が白くなってる。平面のガラスをまるで鷲掴みしたいみたいに力を込めているから、指先が白くなってる。このガラスの向こうにいる僕に触れたいって、その指が言ってるみたいに思えて。  自然と掌を重ねてた。こうしたら、きっと、この掌だけは向こう側にいる郁にも鮮明に見えてるでしょ? 「生殺しだけど、さ……」 「郁?」 「けど、昨日までのとは、全然違っててさ。顔がにやけて、マジでやべぇ」 「い……」  手が離れて、郁のシルエットが消えて。 「生、殺し……」  そう思わず呟きながら、今、掌を重ねたところへ額を擦りつけた。さっき、郁が背中をくっつけていたところ。時間差だけれど、あの背中に、こんなふうに触れたかったから、今、した。  もう、いないのにね。  直接触れたわけじゃないのにね。  なのに、掌はじんわりとあったかくて、額は郁の背中に触れたように感じられて、なんだか火照ってた。のぼせてしまいそうなほど、身体が熱っぽかった。  靴は、乾かない、かな。革だもんね。雨はもう止んでくれたけれど、まだ、外の空気には湿り気が混ざっているような気がする。夜のうちに洗濯物を干してしまおうと二階のベランダに出たら、郁が干したんだろうローファーがぶら下がっていた。  桜の花、けっこう散っちゃった。  青空を覆ってしまえるほど満開に咲き誇っていた桜は一週間足らずで、今度は地面を桜色に染め上げる。 「あ……」  こういうデザインいいかもね。桜が覆うような、そういうの。今、春だから、ちょうど、ここからデザイン考えて三ヶ月、設計そのものは数日もあれば充分だから、そこから糸色を調節して、反物になるのが暮れちょっと前くらい? そしたら、春先の着物にちょうどいいかも。 「文、ここにいたんだ」  洗濯物を干す手を止めて、織りのことを考え込んでいた。  そこに僕を探してくれていたんだろう郁がひょっこりと顔を出した。 「も、もう、寝るの?」 「何? 一緒に寝てくれんの?」 「バッ! も、ここ、外っ!」  慌てて、唇の手前に指を立てて、内緒の声。  田舎で、お隣さんはお世話大好き林さんで、一軒家が連なるばかりのこの辺りは、夜も更ければ何の音もしなくなる。それこそ、向かいのおうちのおじいちゃんがする咳払いの音だって聞こえてしまうことがあるくらい。だからっていうのもあるんだ。りょうちゃんの大事な息子を、僕の宝物を大切にしたいっていうのと、それに、その宝物を変な噂とかで台無しにしたくないっていうのも。 「いつも、こんなの冗談で言ってたじゃん。もう洗濯物終わった?」 「あ、ごめ」 「手伝うよ」 「え、いいよ」  そう、だね。いつも、「仲良しな家族ですこと」って、ご近所さんに言われるくらいには、仲がよかったから、今みたいな距離感で冗談を言い合ったことだってあるけど。 「二人でやれば早いじゃん。ほら、あと一枚」 「……」 「かんりょー。まだ夜は寒いんだから、風邪引くって、文はそれでなくても、細いんだから」 「な、失礼なっ」  洗濯カゴを僕の代わりに持ってくれて、腕を引っ張った郁が手早く扉を閉め、障子を閉じた。 「外じゃできないから、早く、おやすみのキス」 「郁」  触れるだけのキス。そっと触れて、そっと離れて。さっき曇りガラス越しに重ねた掌みたいなキス。 「言い忘れた」 「?」 「学校でさ」  仲はよかったよ。元から、ずっと、郁と僕は仲がよかったと思う。よく手伝ってくれたし。けれど――。 「俺のこと、呼んでくれたじゃん」 「……」 「あの時の顔、すげぇ、きた」 「!」 「そんだけ」  僕はどんな顔をしてたの? ねぇ、笑ってないで教えてよ。 「おやすみ」  仲はよかったけれど、距離はそもそも近かったけれど、でも、もう今とは全然違う。今のこの距離は恋人のそれだから、昨日までとは全然違っていて、僕は、とても落ち着かない。

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