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第14話 初恋

 郁が僕のことを「文」って呼ぶようになったのは、いつからだっけ。引き取った時、十一だった郁はまだ文彦さんって、少し大人っぽくて、少しよそよそしい呼び方をしていた。  あぁ、中学三年の頃だ。  違うかも、二年、だったかもしれない。二年の終わりの頃、文って。  子どもの頃はとても懐いてくれていた。どちらも一人っ子だったから、僕には弟が、郁には兄ができたような、そんな感じだったんだ。  でも、ある晩、二人でいつもどおり夕食を済ませたら、郁が意を決したって顔をして言ったんだ。  ――文っ!  って、いきなり僕のことを呼んだ。  その直前まで、文彦さんって言ってたから、なんだか急に距離がとても近くなったように感じられて嬉しくて、嬉しくて。  ――うん。  そう答えた。  真っ赤な顔をしてたっけ。きゅっと唇を結んで、目が潤んでいるようにも見えた。ドキドキしてるって顔をしてた。  今、思えば、あの潤んだ瞳には好きが混ざっていた気がする。  十二、十三、そのくらいの頃の郁の眼差しには特別な熱量が混ざっていた。あれってさ、あの年齢ってことはさ。  ――文っ。 「……み」  でも、今時の子にしては遅いよね。遅すぎるよね。 「……っみ」  郁の初恋、だったかな、なんて。 「ふーみっ!」 「!」  だって、あの時、顔を真っ赤にしてたから。 「すげ、真っ赤。風邪引いてねぇ?」 「っ!」 「はよ」  今、真っ赤なのは僕の頬。風邪を本当に引いたかどうかなんて、この僕のリアクションでわかるだろう。体調はすこぶる良好だ。  そして、君は真っ赤な僕を見て悪戯好きな少年のように笑っている。笑って、それから、そっと額に、瞼に、唇に、赤かったと笑われた頬にキスをした。 「やば……」 「郁?」 「いつもさ、こんなふうに起こしてみたいって思ってた」 「……」  深呼吸の吐息が寝起きの唇に触れる。額をこつんって合わせて、すぐそこ、近すぎて若干ぼやけた視界の中、郁が目を閉じていた。  よく圧し掛かられて身動きができず、でも鼻先を摘まれて逃れることのできない状況で起こされてた。重いから乗っからないでといってもいうことなんてちっともきかないし。 「キスしようかって何度も思ったよ」  バレて追い出されたらやだからしなかったけどって、零れた苦笑いがくすぐったい。 「郁」 「んー?」  僕が逃げてしまわないよう、みたいに左右の行く手を阻む郁の手。その手を掴んで上から覆い被さる郁を覗き込む。 「郁の初恋ってさ、何歳くらいの時?」 「は?」  あ……赤くなった。 「な、なんで?」  耳まで、真っ赤だ。 「なんとなく」  これは願いを秘めた質問。 「……中学の」  彼が僕以外に恋をしたことがありませんようにっていう願い。 「終わりの頃、かな」 「……」  そして、たまらなく深くて濃い熱量を孕んだ郁の瞳の中に僕がいた。郁の腕の中にいる僕がそこに写ってる。  中学の終わりの頃、郁が僕を「文」と呼ぶようになった頃。 「ふ、文はっ?」 「僕? 僕は……」  きっと郁の瞳と同じものが僕の瞳の中にもあるでしょう? それこそ長ったらしいほどずっと前から持っていた深くて濃い。 「!」 「……ね?」  キスで、わかるでしょ? 「!」  わかった? 「……恥ずかし」  三十四にもなってキスひとつしたことないんだよ。昨日、キスをした。初めては、頷いた拍子に触れた。二回目は郁からしてくれた。三回目は、今、郁がした。  四回目が僕から。そして、一番、なんだか色気のない「接触」じみたキスになった。 「ちょ……マジでさ……文、マジで」 「な、なに?」  布団で顔を隠したいけど、ぷしゅうぅ、と音がしそうなほど君が真っ赤になりながら僕の上に乗っかるから隠れることは叶わず。でも、君を戸惑わせて真っ赤にできたんだから、それはそれで、かな。 「ほら、朝だよ」 「つうか! これで一年我慢とか、生殺しどころかっ、じごっ」  郁が身じろいだ隙にベッドから逃げ出した。こっちだって伊達に何度も押し潰されつつ起こされてきたわけじゃない。逃げなかったのは組み敷かれる重さも気に入っていたから。逃げなかったのは、自覚する前から、君のことが誰より好きだったから。 「……天国っつうかさ」  君が僕の初恋、だったから。 「おはよ、郁」  部屋の入り口まで逃げて、振り返ってそう挨拶をしたら、郁が口元を抑え困っていて、とても抱き締めたくなるほど可愛かった。 「あら、なんだか、今日は社長ご機嫌ですね」 「そ?」 「昨日、血相変えて、郁君の学校に行ったからてっきり、ねぇ」 「ねぇ」  パートさんの二人が顔を合わせて、大きく深く頷いている。血相を変えて飛び出して、きっと大問題があったんだろうと思ったって。あったけれど、そういうのじゃないよ。 「やだぁ、すっごく嬉しそうだわぁ」  そうだった、昨日の今日だった。って、今思い返して、なんて長い一日で、なんて甘い一日だったんだろうとびっくりしてしまった。

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