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第15話 み、のつく人

「何か良い事があったんですか?」  この間思いついた桜の花びらになれそうな染料をピックアップしようと、染料倉庫に篭もっていた。 「ぁ、成田さん」 「ちわっす」 「こんにちは」  ルート営業ついでに何か追加の発注はないかと顔を出してくれたらしい。そこでパートさんのおしゃべりに混ざっていたら、今日の社長は朝からご機嫌だったと教えられた。 「あー、あはは」 「朝にめっぽう弱い社長が、その朝から元気におはようございますなんて言うもんだからぁ、って、言われてましたよ」  参ったな。これじゃ社長の威厳はほとんどなさそうだ。 「郁君、ですっけ? 高校三年生かぁ」  たぶん、昨日学校から電話があったこと、僕がその電話を受けたあと学校に慌てて向かったこと、を聞いたんだろう。そこだけを聞けば、何か問題を起こして呼び出されたように思える。 「成田さんのほうが郁とは年近いですね」  母が話してた「成田さんの息子さん」が当時高校生だったから、今、彼は歳がいっていても三十手前だろう。でも、見た目は二十前半くらいに見えなくもないから、やっぱり二十五くらいが妥当なんだろうなぁ。 「二十五です」 「! ご、ごめんなさいっ」  顔に、出てた、かな。  頭の中で思っていたことに答えるように成田さんが話してくれて、それに慌てて謝った。二十五、歳か。若いね。僕より十近く離れてるんだ。 「俺、年上って好きなんすよ」  そして、郁と僕は十六も離れてる。って、そんな縮まらない差のことを考えたって仕方ないのに。 「同じ歳とかって、騒がしくて。って、俺も別に静かにするタイプじゃないんですけど。でも、相手は」 「?」  成田さん? 熱でもあるの、かな。頬が少し。 「文っ!」  大丈夫ですか? そう声をかけようかと思った時、ものすごい勢いで郁が飛び込んできた。 「郁? おかえり」  僕も、そして成田さんも振り返った。びっくりした。郁は、普段、仕事場のほうには顔を出したりしないのに。 「どうかした?」 「ぁ……えっと、あー……課題! 課題で、わかんないとこが!」 「は?」 「ちょっとでいいから」 「は、はい? 今?」  なんで僕? 高校三年生の問題なんて僕にわかるわけないのに。もう今となってはちんぷんかんぷんだってば。成田さんのほうに訊きなよ。とは思いつつ、取引先の人に郁の勉強を手伝ってくれないか、なんて頼めるわけもなく。けれど、郁の役には到底なれそうもない。 「後でもいい。ここで待ってる」  待ってるの?   時計を見るともうそろそろパートさんたちは退社の時間だった。どちらにしても事務所に戻らないといけない。  わざわざ寄ってくれた成田さんに今のところは追加で頼みない染料はなさそうだと伝えて、全員で、染料倉庫を後にした。事務所ではデスクの上を綺麗にし終わったパートさんが今すぐにでも帰れるように待ち受けていた。その二人を見送り、事務所をいったん閉めると、郁が本当に待っていた。 「お待たせ」  うちの敷地内にある工場の入り口のところ、柱に寄りかかりながら、郁が待っていてくれた。  声をかけると、目線だけをこちらに向けた。少し長い前髪が風に揺れる。今時の子、だからってだけじゃない。この前、学校に行った時も高身長の郁は目立っていた。でも、身長のせいってだけでもない、かな。  りょうちゃんは凛々しさのある綺麗な人だった。花ような美しさとみずみずしさがあって、母方の親類って言われても、最初はそう思えなかったくらい。  郁はそのりょうちゃんによく似ている。だから、田舎の学校であか抜けて見えたし、きっと普段でも目立っていただろう。  けれど、なんでだろう。 「しゅ、宿題、僕にわかるかなぁ」  カッコいいとは思ってたけど、さ。 「この前、郁が部屋で勉強しながら寝ちゃってた時、ダメだけど覗いちゃったんだよ。ちんぷんかんぷんだった。だから、僕でわかるかなぁって」  好き同士だと分かってからは、なんだか直視できない。ほら、だから、うちに入って、二人っきりになると、本当に落ち着かない。 「もう十六年も……」 「……文ってさ、鈍感すぎ」 「ぇ?」  学校の課題の話とは全く違うことを言われて、びっくりしてしまう。 「いいけど、その鈍感のままでいてくれて」 「は? ちょ、何」 「気が付かれて、向こうに行かれても、やだからさ」 「? 僕、どこに行くの?」 「……なんでもない」  ちょっと、なんでそこで笑うの。向こうってどこ。気が付くって何を。 「包容力とか、向こうのほうが断然……」 「郁?」  何? あまりちゃんと聞こえなかった。何が断然? 「なんでもない。つうか。課題」 「え? 本当に? あのっ僕」 「英語のリーディング」  英語? それこそ苦手というか、絶対にわからないってば。 「ここで聞いててよ」  お茶の間に座って、足の間をぽんと指定した。え? そこに座るの? 足の間? だってそんなの。 「なんて、冗談だよ」 「なっ、冗談?」 「この前、俺が勉強しながら居眠りしてて、そこに文が来てさ」  そう、その時だよ。僕が課題の数学を覗き込んで、こんなに難しいのかって驚いたんだ。 「寝惚けて掴んだ」 「! み!」 「は?」 「みって、寝言で言った!」  み、って呟いて僕は、それを郁の好きな子の名前なのかもしれないと思って、み、が付く名前を一人並べてた。 「ゆみ、くみ、るみ、あみ、どの子だろうって」  文、僕の名前も「み」が付くね。  お互いに、その時のことを思い出して、何かがスッと落ち着いて、それから一緒になって笑ってしまった。  郁は夢の中で僕を呼んでいて、僕は、夢の中で、郁は誰といるんだろうと、考えて。 「やっぱ、鈍感」  み、が付く名前は「文」だった。  あの時、郁はすごい顔してた。僕は無意識に手を伸ばして、その手をいきなり掴まれて驚いたけれど、掴んだ郁も驚いてた。好きを隠していた郁と、気が付いていなかったけれど、好きをもう持っていた僕。  どんな夢を見ていたんだろう。慌てて僕のことを捕まえたけれど。  手がじんじんしたんだよ? 熱くて、そこにばかり意識が傾いてしまうほど。 「郁、ほら」  足の間、でしょ? そこに体育座りをした。 「ちょ、冗談だって。マジでリーディング」 「いいからっ!」  課題、やるんでしょ?  ねぇ、あの時、戸惑うくらい郁のことを意識したんだよ? 「はい。課題……」  そう言って、郁の懐に陣取った。これから慌てて捕まえる必要なんて、ないでしょ?  だから、ほらって、座って身を小さくする。抱き締めやすいように、と背中を丸めて小さくなった。

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