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第17話 春、初恋が咲く

「……ふむ」  担任の先生が表情を渋くさせて、郁の進路表を見つめてから、ゆっくり頷いた。 「いいと思うぞ」  本当に? 「うん」  もう一度、その進路表を確かめてから、また頷いて、そして二回目の仕切り直しの面接はすんなり終わってしまった。 「郁、本当に?」  担任の先生に一礼をして、教室を出ると、放課後だけれど隣にある進路指導室はとても賑わっていた。 「あぁ、本当」  郁が選んだ進路は進学。でも、進学する希望校は、専門学校。服飾系の専門学校で、その中の織物科。そこで勉強して、染色士の資格も取りたい。いつかは、今まで世話になった相馬織物屋の手伝いをしたいと、郁は担任の先生に話した。  その服飾専門学校なら僕も知っている。僕が高校生だった時にもそこを調べたから。  片道、乗り継ぎが悪ければ、二時間かかることだってある。  遠いよ。  毎日通うには、ちょっと遠い。  だから諦めたんだ。別に織物業の携わるのに資格はいらない。ただ、一人前の織物士になるには十年くらいは経験積まないといけないってだけ。職人業だから修行は必要だ。織物は修行十年が平均って言われてる。専門には行かず、家業で経験を積む人もいるし、僕のように就職っていう形で賃金は安いけれど、働きながら学ぶ人もいる。  何も片道二時間近くを費やしてまで通わないとなれないわけじゃない。 「それなら、そっちに住んで」 「通う」 「……」 「通いで、そこに行く」  昨日、郁が決めた進路とその専門学校のパンフレットを手渡された時、戸惑った。二時間、合計四時間を毎日。とても大変なことだよ。 「資格が必要ないのも知ってる。けど、俺が取りたいんだ。文とずっと」 「いーくっ!」  賑わっていた進路指導室の扉、ガラスになっているところから郁の姿が見えたんだろう。勢いよく大きな音を立てて、そこの扉から、女の子がひとり飛び出してきた。 「三者面談終わったの?」 「……あぁ」  あの子だ。この前、僕が学校に来た時、郁に話しかけていた女の子。 「やっぱ、進学?」 「……あぁ」  服飾かぁ、と残念そうだから、彼女は違う進路なんだろう。そのことに、ちょっとだけ――。 「あ! カリフラワーの、美味しかった? あれ、うちのママ、超好きなの」 「あぁ、ありがとな」 「いえいえぇ。あ、こんにちはぁ」 「……こんにちは」  彼女が違う進路なことにちょっとだけホッとして。彼女の明るく素直な笑顔にちょっとだけ胸のところが焦げ付いた。 「もうこのまんま帰るの?」 「あぁ」 「そっかぁ、バイバーイ」  バカだな。  何、ヤキモチなんてしてるんだ。何、モヤリと胸のうちを曇らせてるんだ。 「カリフラワーの」 「? あぁ」 「あの子に教えてもらったんだね」  もしも、僕が郁と同じ歳の女の子だったら、それがたとえ親戚だとしても、彼女はあんなに天真爛漫な笑顔は向けなかったと思う。向けられたのはきっと警戒心だった。  でも、そんなの僕に向けるわけない。  郁にとっての恋愛対象に僕は入ってないと彼女に思われてる。 「文?」  当たり前のことなのに。 「なぁ」  十六歳差も、同性っていうことも、親戚ってことも、郁の親代わりが僕ってことも。 「今、すっっっっげえ、嬉しいんだけど」 「?」 「まさか、文が、クラスの女子にヤキモチをやくなんてさ」 「! だ、だって!」  僕が、この気持ちに気が付いたのは最近だけれど。郁はもっと早いと言っていた。十六歳差、同性、家族代わり、そんなん、郁はずっと前からわかってて、それでも、ずっと。 「ね、文」  ずっと、想っててくれた。 「デートしよっか」 「……」 「この辺だと、インターんとこのショッピングモール? うわ。さすがにしょぼい」  けれど、本当に田舎だからどこに行っても知り合いがいるんだ。 「どっか、行かねぇ?」  誰も僕らを親戚だと、思わない場所。 「どっか……あ、そしたら、ちょっと遠いけど、水族館とかは?」 「……文」 「そうしよう! あの、専門学校の近く、ってそんなに近くはないけど、そこにあるからっ、水族館っ!」  あの子にしてみたら僕は郁の家族でしかなくても、パートさんたちにしてみたら、親代わりで育てた親戚の子だとしても。  僕は、違う。 「マジで? すげぇ、楽しみ」  誰も思いつきもしないだろう。  僕が郁に恋をしているなんて。それでも、これは恋だ。 「うわぁ、すごい、海月が綺麗。ね、郁……」 「……あぁ」  頷いてるけど、ちっとも見てやしない。  ふわり、ふわりと浮き上がって、舞うように漂う海月。それはとても綺麗なのに、せっかく水族館に来たのに。ほら、ちゃんと見てよ。僕じゃなくて、海月のほう。  僕のことなんて、いつだって見られるんだから。 「あ、すごい、足元、なんだっけ、こういうの」 「プロジェクションマッピング?」  田舎者だよね。初めて見た。足元を海月が漂っている映像があまりに鮮明で、足で踏んづけてしまってる気がして、つい、よけてしまう。 「あはは。すごい、ほら、足踏みすると水泡が」  ぷくぷくって立ち上って、弾けて消える。  いつだって見られるのに。郁のこと毎日見てて、毎日ドキドキしてるのに。今日はちょっと違うんだ。郁は親戚の子じゃなくて、僕は親代わりの親類じゃない。  ただ歳の差がある、同性で、これはデートだから。 「文」 「んー? あ、すごい、海月がまた」  見れなくて、俯いてしまう。目の前に本物の海月がいるのに、視線を上げたらすぐ近く、とても近いところに郁がいるから。足元の海月の映像ばかりを見てしまう。 「すげぇ好き」 「……」 「好きだよ」  誰も僕たちのことを知らない。  十六歳差で同性。けれど、ありえない恋愛、じゃない。 「僕も」 「……」  これはデート。 「僕も、郁が、好きだよ」  これは、恋。  初恋を、君とした。  僕はきっと、この海月も、この年の桜も、この初恋に戸惑うばかりの春を一生忘れないと、思った。

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