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第32話 突然に

 どんどん寒くなれ――なんて願ったのは、子どもの頃以来かもしれない。 「はぁ」  吐息が真っ白になるのを確認してはちょっと嬉しくなるなんて、子どもみたいだ。  春がすぎて、夏になって、秋を通り過ぎて。 「文!」  冬が来た。  ようやく十二月になったんだ。 「待った?」 「……」 「文?」 「! あ、ううん、待って、ない……よ」 「ホントかよ。っつうか、あんた手袋は?」  心臓が跳ねた。だって、郁が僕の指をぎゅっと、突然握ったりするから。大丈夫! って、慌てて答えて、冷たくなった手を自分の裾の中に隠してしまう。  水仕事で慣れてるんだ。だから、多少の寒さじゃ、あまり気にならない。まだ十二月の寒さなんかじゃ、まだ――。 「文? どうかした? いつも以上にボーっとして」 「……なんか、デートみたいだなぁって、って、何、いつも以上にって」  駅前で待ち合わせて、待った? 待ってないよ。みたいな会話をして、まるでデートみたいだなぁって思ったんだ。 「あははは、デートじゃん」 「!」  大丈夫かな。 「つか、俺はそのつもりだけど?」  今、僕の顔、真っ赤になってないかな。 「行こうぜ。映画、早く」 「あ、うん」  好きな人とのデートに浮かれた顔、してないかなって、じんわり赤く染まってるだろう頬をよそに見られないよう、俯きながら、図書館に行くにしてはやたらとお洒落をしている郁の背中を追いかけた。 『なぁ、文、来週の土曜さ、空いてない?』 『土曜も何も僕の予定なんて郁が一番よく知ってるじゃない』 『映画、観に行かねぇ?』  観たいのがあるからって誘われた。図書館に用事があるから、駅で待ち合わせて一緒に観ようって。  照れくさかったし、歳離れてるし。でも、郁が観たいと言った映画は郁の趣味とはちょっとどころかかなりズレそうなミステリー映画だったから、僕が好きなミステリー映画だったから、頷いた。  頷いたら、郁の頬が桜色に染まって、嬉しそうに笑っていた。 「郁って、ミステリーって好きだったっけ?」 「あー、まぁ」 「そうだっけ。この前テレビ放送してたの、途中で寝てた気が……」 「……」 「この前、僕が読んでたミステリー小説、まだ読み終わってない気が……」 「うっせぇなぁっ、観たかったんだよ!」  今も、桜色に染まってる。  まだなのに、郁の頬が春の色をしてる。僕も、郁も、ずっと待ち望んでいる春の色。これから来るクリスマスよりもずっとずっと待っている春の色。 「あっ! 郁!」 「あ?」 「ミュージカルだって」 「……へぇ」 「これ、知ってる。りょうちゃんが踊ったことがあるんじゃなかったっけ」  端っこのポジションなんだけどねぇって、大きな劇場のダンスミュージカルに出演した時のことを照れくさそうに話してくれた。今までとは桁違いの大勢が見守る中で踊れるんだって、ワクワクしてたっけ。  そのちょっと後だった。大きな劇団の専属ダンサーとして招かれて、そこからは忙しい毎日で、春にうちへは来れなくなってしまったけど。 「あぁ、俺、見たことあるよ」 「え? そうなの? どうだった?」 「すげぇ楽しそうだった。よく覚えてるよ」 「……へぇ」  来春、公開だって。ずいぶん、気の早い宣伝だなぁ。まだクリスマスだって再来週だというのに。でも人気のミュージカルだからなんだろう。舞台が大ヒットしたから映画になったんだろうし。 「すごいね」  来春、かぁ。春だって。 「……待ち遠しいな」 「……ぁ」  思わず、動揺してしまった。郁の表情は母の出演していたミュージカルが映画になる日が待ち遠しいというには、少し、色気がありすぎるよ。  急に、そんな顔しないでよ。ドキドキしてしまうから。それでなくても今日の郁は大人びた服装で、なんだか高校生に見えないんだから。 「何? なんでそんな真っ赤なの? 文」 「べ、別に」 「春になんか楽しみなことでもあるわけ?」 「なっ、そ、それ、意地悪だっ」  さっきの仕返しだって、笑ってた。そして、このミュージカルポスターを郁に見せようと、慌てて、袖を掴んで引き止めた手をぎゅっと握られて、急に恋人繋ぎをされて、また心臓が飛び跳ねる。  きっと繋いだのは数秒。シックな雰囲気の廊下、少し照度を落とした照明、その中でならわかりにくいからとちょっとの間だけ繋いだ手の温かさにすら、ドキドキするんだ。  急に触れないでよ。  急だと、びっくりしてしまう。咄嗟のことだと、誰かに見られたら、とか、考えるより早く大きな手に包まれたことに喜んでしまうから。 「ほら、行こうぜ」 「……」 「文」  春には、その手に……って、考えて頬の熱が収まらなくなってしまうから。  そう、突然だと、びっくりして、ひどく動揺してしまうんだ。 「……え」  慌てると、「保護者」としての自分を作れなくなってしまう。 「あの……」  急だと、郁に恋をしている自分が出て来てしまうんだ。 「郁君のこと、ここで待たせていただいてもいいですか?」  唐突だった。  仕事を終えて、隣の自宅に戻ろうと思ったら、門のところ、ひらりとタータンチェックのスカートがはためいたのが見えた。郁の通っている学校の制服の柄だったから、目に飛び込んできてしまった。  知らないフリをしたかった。  そこに郁の同級生で、きっと郁のことを好きなんだろう女の子がいるなんて、わからないでいたかったのに。僕が彼女に気が付いて、彼女も僕に気が付いて、そして切なげな表情で、郁に話しがあるから、ここで待たせてもらってもいいかと言った。言われてしまった。  ダメです。  なんてこと、言えないだろ?  今日はすごく冷え込んでいて、女の子が屋外で待ちぼうけをするのは酷なほどだから、仕方ないよ。言うしかないだろ? 「まだ、郁は帰って来ないと思うから、もしよかったら、うちに上がって待ってれば?」  保護者だなんだからと一生懸命にそれらしい言葉を引っ張り出して、嫌がる自分を胸の中にある箱へと押し戻した。

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