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第40話 春が、来た
一番好きな花は、桜だ。
桜は、郁を連想させるから。
「今年は桜の開花いつくらいなのかしらねぇ」
パートさんが外を眺めて小さく呟いて、僕も、もう一人のパートさんも、庭にある大きな桜の木に視線を向けた。
僕が小さい頃から春になるととても見事な桜が咲くんだ。今年は、少し寒い日多くて、冬が長かったからかな。まだ、庭の桜は蕾すら膨れていない。
「三月終わりじゃ、まだまだよねぇ」
三月が終わる。
「あの、織物は今度の展示会に合わせたんです?」
春が、来る。
「あー、いえ、そういうつもりじゃなかったんですけど」
でも、日々の仕事を優先にしながらだったのもあったし、一年後に出来上がっていればいいなぁって思っていたからか、ちょうど春に春らしい反物が出来上がった。
面白よね。
急がなくていいけれど、早い分にはかまわない、とかさ。期日が曖昧だと、のんびりしすぎて、結局、この日までには出来上がっていなければっていう、期日ギリギリに仕上がるんだ。
春、までに出来上がっていたらいいと思っていたから、本当に一年かけて、ようやく出来上がった。桜の織物。
去年、庭にびっしり広がった桜の絨毯を見て、それでもまだまだ花を咲かせ続ける桜の花を見上げて、春の風に舞い踊るように散っていく花びらを眺めて、イメージした織物。
「すごい綺麗よねぇ」
「うんうん。春が来たって思ったわぁ」
二人がほわりと表情を和らげた。
まだ着物になっていない反物がこの前仕上がって、二人にだけ見てもらったんだ。どうだろうって。そしたら、すごく綺麗だって言ってもらえた。
普段は反物にタイトルはつけないんだけれど、あれは付けたんだ。「春」っていう名前をあの反物にはつけた。
一年、かけて作った、想いを全て込めて、その名前を。
「明日ですっけ」
「いいんですか? 私たちもお休み頂いちゃって」
明日は――。
「郁君の卒業式」
「えぇ、かまいません。ゆっくりしてください」
明日は僕は一日、うちにいるから。
春、と決めていた。夏は、溶けてしまいそうな熱を堪えて、秋は切なさに身を縮めて、冬は、郁と手を繋いで、そのあったかさに微笑んでた。
「郁君、卒業式すごそうよねぇ」
「すごいわよっ! 絶対にっ。バレンタインデーもすごかったじゃない」
制服のボタン、全部奪われちゃうわね、だって。今時の子って、卒業式に好きな人の制服のボタンってもらいに行くのかな。僕の頃はまだそういう風習残っていたけれど。
あははは、って笑ってみた。バレンタインがすごかったっていうのは別に郁に渡そうと長蛇の列ができたとかではなくて、あの子が、佐野さんが郁にチョコを渡しに来たから。本命の、好きを込めたチョコレートを。
その日、郁は帰りがやたらと早くてびっくりしたんだ。
どこか具合悪い? と訊いてしまったくらい。別にって、郁がぶっきらぼうに答えてしばらくしてから、理由がわかった。
――ごめん。これ、受け取れない。
郁がそう言うと、佐野さんが「だよね、ダメ元だったんだぁ」って、寂しそうな声で呟いた。
それをちょうど見かけてしまったパートさんたちは、青春の一ページだわって眺めてたけど。僕は――。
「あの日って、社長お誕生日だったでしょう? チョコにケーキに、ってなっても、全然細いから羨ましいわぁ」
「いやぁ、そんなことないですよ。だって、もう三十五ですもん。アラフォーですから」
そんなのアラフォーに入らないって笑われてしまったけれど、あの日はとても切なくて、切なくて、我慢するの、辛かった。だって、バレンタインに、想いだけでも伝えたいと、郁に切ない片想いを募らせる同じ歳の可愛い女の子がいて、もう三十五歳の自分がいたらさ。十七離れてしまった郁を挟んで自分と彼女を比べてしまう。
比べて、祝ってくれる郁に我儘を言った。
――誕生日プレゼント、今、いらない。
ねだってしまった。
――春になったらちょうだい。
子どもみたいな我儘を。
――郁を。
欲しいって、ねだったんだ。
「明日、いよいよ卒業式なのねぇ」
卒業したら、ちょうだいって。
「……はい。明日、卒業式なんです」
「長いようで短かったでしょう?」
「……えぇ」
本当に、長いようで短くて、そして心待ちにしていた。
「ただいまぁ」
「文、おかえり」
「!」
自宅に戻ってちょうど、郁がコーヒーを片手にリビングから出てきたところだった。
「早かったな」
「あ、うん」
――明日、いよいよ卒業式なのねぇ。
「明日、朝」
「あ、うん。九時半から式だけど、保護者も九時十分までに、でしょ?」
「うん。それじゃ。おやすみ」
「え? もう?」
だって、まだ夕方なのに。
「とりあえず」
もう学校の勉強はひとまず休憩。四月になればもっと忙しい毎日が郁のことを待ち構えていて、今は、ひと時の休息っていうか。
だから、別にこんな夕方から部屋に篭もる必要なんてないのに。
「風呂は後で入る。飯も済ませた」
本当に? 部屋に行くの?
「明日、卒業式だから、マジで据え膳状態でのんびりできるほど、俺、できてないから」
「え……」
心なしか、郁の頬が赤かった。お風呂は後でって言っていたから、別に湯上りでもないのに、熱っぽく色づいていた。
明日が卒業式だから。
「おやすみ」
「お……やすみ、なさい」
また明日。
そう囁く郁の声に僕もなぜか頬が熱くなって、身体がじんわりと熱に染まっていくような気がした。
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