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第49話 たいしたこと、たいそうなこと
織物の博物館どころか、温泉饅頭も食べてないや。部屋入って、そのままずっと……だなんて、ちょっと恥ずかしくなるほど、なんか、盛り上がってしまった。
「男湯、あんま混んでないといいな」
「? なんで?」
「なんでって、そりゃ……」
「あ、まさくぅん! 早く早く」
「おぅ」
はしゃぐ女性の声に顔をあげて、ぎょっとしてしまった。目の前を歩いてたカップルが一緒に「ゆ」っていう暖簾の下がったお風呂へと入って行ってしまったから。
僕らもお風呂に行く途中だった。男湯はもう少し先。女湯はこの廊下の突き当たり。
女性が男性の腕を引っ張って、いそいそと入っていったのはそのどちらでもない。混浴? 彼女さんを連れて? って、驚いちゃったけど。
「へぇ、これか、さっき言ってたの」
「さっき?」
「あぁ、チェックインの時言われた。けど、三十分だけだし」
「三十分あれば充分じゃない?」
「俺、そんな早くねぇよ」
「そう? 郁ってそんなお風呂なが……」
「鈍感」
一気に顔が熱くなる。
三十分じゃ足りない。そんなに郁は早くない。つまり、その、つまりは。
「真っ赤」
「だ、だだだ、だって」
「もうのぼせた? って、あ、やべ、帰りに飲み物冷たいのを買おうと思ってのに、金忘れた」
郁は浴衣なことも気にせず大股で闊歩しながら、部屋へと引き返した。
家族風呂か。
家族って、名前がついてはいるけれど、そうだよね。カップルでも使えるよね。
戸のところに札が下がっていて、貸切風呂になってる。郁がチェックインしてくれてたから知らなかった。三十分ごとで区切ってるらしい。今の時間ちょうど五時から五時半っていう札が下げられてる。予約しておいた人がその札をもらって、それで、その時間になったらここにかけておくのかな。入ってますよっていう意味も兼ねて。
家族風呂なら、僕と郁も家族同然だから。
「…………!」
って、何考えてんの。貸切のところに二人で入らなくたって、男同士なんだから普通に男湯で一緒に入れるじゃん。
照れ隠しに、コホン、ってひとつ咳払いをして、さっき郁も思った三十分じゃ足りなくて、今しがたまで二人で耽っていた行為を頭の隅っこに追いやった。その咳払いをした、僕の右手の薬指にキラリと光る輪。
――指輪してらっしゃったので。
仲居さんはそう言っていた。
恋人同士だって思ってくれた。指輪があったからって。
「……ぁ」
「あら、お風呂ですか?」
その仲居さんが廊下にしゃがみこんでいた。
返事をするとニコリと笑い、視線を壁へ。何を見てるんだろうと思って、その視線の先を追いかけると、反物が飾ってあった。織物業が盛んな場所だからかな。旅館の中に反物が飾ってあるなんて少し珍しい。
「春用の、ですか?」
「えぇ、来月は大型連休があるのと、桜見物にそろそろお客様が増えるので、今のうちにと思ったんです」
飾りのついた盾に垂れ下がるように金の波紋を地にあしらって淡いピンク色の花が咲き誇っている華やかな反物。その前に花瓶を置いていた。地が瑠璃色にところどころ土色の混ざる渋めの花瓶。
「……いかがでしょう」
「え?」
「お着物お詳しいとおっしゃっていたので、おかしくないですか?」
「あ、えっと」
仲居さんである彼女が着物の裾を乱さないように整えつつ、中腰の姿勢になると目の前の反物をじっと見つめる。
「桜の花を生けたらもっといいかなって」
「え! 本当ですか? 後ろの反物とかぶっちゃっておかしいかと思ったんです」
彼女がびっくりして、たぶん、素だったんだろう。接客の時よりも幾分か低い声だった。
たぶん、だけれど、被るというよりは、立体感が出るんじゃないかなって思う。花瓶の瑠璃も土色も背後の波紋の金に良く馴染んで見栄えがいいから、きっとそれが活かせるんじゃないかなって。
「すごい! さすが専門家の方のご意見は参考になります」
「いえいえ」
「なるほど……」
感心しきった様子で頷いてくれた。歳は四十くらい、かな。うちで働いているパートさんのちょうど中間点くらいの年齢に思えた。
「あの……」
「はい」
四十、くらいの方。
「僕らがカップルって、気がついてらっしゃったけど、あの、驚かないんですか? その、もっと言ってしまえば、ちょっと敬遠したく、なったり、とか」
それこそこの人は接客の専門家だ。お客さん相手に嫌悪感は出さないだろうし、もしも嫌悪していても表情にそれを出すようなことはしないかもしれないけれど。うちの地元じゃ、露骨にはしなくとも、嫌悪する人も少なからずいると思うんだ。ここも田舎といえば田舎。大都会みたいに多種多様な人が暮らしている場所じゃなくて、閉鎖的な部分がやっぱりあると思う。
「しないですよ。とても素敵でした」
「と、歳も、その離れてて……親子ほどでは、ないのですが、それでも」
「愛に年齢は関係ございません」
「……」
「着物、お詳しいし、反物、とてもお好きなようなので」
彼女はニコッと笑って、自分の帯紐の辺りを指で摘むと、きゅっと締めて身を整える。
「着物の組み合わせは、この振袖だからこの帯にしなくちゃいけない、っていう決まりはないです」
もちろん合う合わないはある。けれどそれはどんなものにもあることで。
「人それぞれです」
「……」
「そうだ。貸切風呂、ご予約されました? まだいくらか空きがあったと思います」
「え! あ、あ、あのっでも!」
同性だから、別に貸切じゃなくたって一緒には。
「せっかくですから」
「……」
「ちょっとお待ちいただけますか?」
「あ、あのっ」
目尻にくしゃりと皺を寄せて笑って、彼女はその場から着物の裾を手で押さえながら、パタパタと駆けて行ってしまった。
そして、戻ってきたその手には札があった。
「今、閑散期なので、ガラガラでした。もしよければ」
「……ぇ、でも」
「この時間ラストなので、次のお客様おりません。湯担当には私のほうから言伝しておきます。延長三十分追加の一時間貸切に」
「えっ、そんなっ」
「お礼です」
だって、そんなお礼をしていただくようなことはひとつも。
「ここの飾り、とても悩んでおりましたので」
「そんなことくらい」
「はい。ですが、私にはここを任された責任があるので、とても真剣な悩みでした。反物だけっていうのも芸がないと」
どうしたものかと数日悩んで、そうだ、花瓶を置いてみようと思ったのだけれど、いかんせんセンスがなくて。花瓶を置くだけ? やっぱり花瓶はいらない? とずっと考えていた。だから、プロの意見はとても参考になりましたと笑った。
僕にとってはたいしたことではなかった。けれど、彼女にはたいしたことで。
「せっかくの旅館ですから、どうぞ、パートナー様とゆっくりおくつろぎくださいませ」
彼女にとって僕と郁の関係はスキャンダルにもならない、たいそうなことではなかった。けれど、僕にとってはたいしたこと。
「あ、ありがとうございます」
怪訝な顔ひとつされず、それこそ、さっき楽しそうに貸切風呂に入っていたカップルと同じように、なんて初めてだ。
「……」
普通に恋人同士でいるなんて、初めて、なんだ。
――本当はね。恋人同士に見えたらいいなぁ、なんて思っているんだ。僕らのことを誰も知らない場所に行くのなら。無理かな。男同士じゃ、友だちだと思われるかな。
どこであっても、男同士じゃ。
「財布、持ってきた。お待たせ」
友だちか、親戚、どっちかしか、ダメかなって。
「郁」
「風呂、行こうぜ。晩飯六時だっけ」
「うん。だから、後で一緒にゆっくりはいろ?」
「文? 混んでた? 混んでんなら」
そうじゃないんだって首を横に振った。
「あのね……」
えっと、ね。後でゆっくり、恋人同士で、その入りたいんだ。
そう、こっそりと耳元で彼氏を、お湯に誘った。
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