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第57話 ただ身勝手な男

 ――それじゃあ、主からの命令ね。  ご主人様の命令なら絶対でしょ? 「六時半、か……」  職場の施錠をしながら、腕時計で時間を確認した。この時間なら、今頃、郁はもうレストランのほうかな。まだ飲酒はできないから新歓コンパは飲み屋さんじゃなくて、スペイン料理のレストランなんだって。ワインとかも飲めるから、飲酒したい人も楽しめて、未成年組はスペイン料理を召し上がれ、っていう感じ。都会、だなぁって思ってしまった。イタリアンでもフランス料理でもなく、もちろん居酒屋でもない。 「スペイン料理……」  郁が食べて、そのうち作ってくれないかな。郁は器用だからやってくれそう。 「……」  ふと、会社のドアを閉める手元を見た。  今頃、同年代の人たちに囲まれて、楽しくやってるかなって、昨日の晩、僕にお小遣い分買われた青年ごっこを楽しんだ恋人のことを思う。  思いながら、指輪をぶら下げていたネックレスを外した。  仕事中は、できないから。  パートさんに見つかったら、たぶん大騒ぎになってしまう。ついにお相手が! なんて、大ニュースにされてしまうだろう。そういうの大好きだもの。  僕は気にしてないからあまり気が付かないんだけど、たとえば芸能人とか有名人が薬指に指輪をしていると、瞬間的に、それが右なのか左なのかを確認してる。右だったわね、とかさ。  きっと、郁が同じ指輪をしてるのを知られてしまう。  だから、僕は必ず外して首から提げてる。 「……こんちは」  首から提げて、そして、指に通す度に少し。 「……なんか、お久しぶり、です」  少しにやけてしまうんだ。 「相馬さん」 「……成田さ、ん」  滑らかな肌触り。全体的に角を全て丸めてある優しいフォルムは指に通すととても気持ち良くて、頬が緩む。  そこに、成田さんがいて、僕を見てた。 「指輪、それ、ペアとか、なんすか?」  どう見てもファッション用ではないシンプルなもの。 「それ、あの子と?」 「……」 「マジっすか」  今にも崩れてしまいそうな顔をしてた。表情が、感情が、ほろほろ崩れてしまいそうな。それなのに、彼の声がやけに強くて、刺さる。 「……なり、たさん」  それは、まるで温かく柔らかい布団の中で見る幸せな夢を叩き起こす、目覚まし時計みたい。 「あの子が高校卒業する日、ここに来ようと思ったんす。俺じゃダメっすかって訊きに。ダメでしょ! 相手、世話してる子どもで、男で、そんで」 「知ってます」  なんて顔をするんだろう。なんて、悲しそうな、イヤそうな、否定の塊みたいな顔を。 「わかってます」 「もう高校生じゃないからって手を出すんすか?」 「……」 「自分とこに引き取って育てて、そんでもうセ……」  成田さんは高校球児で家族の自慢だって言ってた。母が成田さんのお母さんからそれを聞いて素敵ねって。カッコよくて、クラスでは大人気だっただろう。太陽みたいな人だと、僕も思った。  そんな人に僕は、僕らはこんな顔をさせてしまう。 「わ、分かってます? その、このことが知れ渡ったらっ」 「わかってます。知れ渡ったら、って」  きっと、とてもスキャンダルなことだ。 「貴方はっ!」  そう。うん。本当、スキャンダルだろう。もうセックスしても咎められない年齢になったからセックスした。一回り以上も離れた同性の男の子を誘惑して、たらしこんで、行為に及んだ。 「最低、なんでしょうね」  僕は悪い大人。郁はその悪い大人に盲目的に育てられた、哀れな青年。 「でも、ただ好きなだけなんです」  周りがどう見ても、どう思っても。 「異質だと言われても、異質なんかじゃない」 「なっ!」 「郁のことをただ好きになっただけなんです」 「……」  悪くていいよ。僕は。 「まだ十八っすよ」 「……」 「これから今だってっ。そのうち目が覚めるかもしれない。こんな田舎じゃないとこで、もっと世界が広がれば。そんな指輪なんてして。ままごとの」 「ごめんなさい。これに、触らないで」  成田さんが何をしようとしたのかはわからないけれど、この指輪は、ダメなんだ。 「郁から、もらったの」 「……は」 「触らないで、ください」  僕は悪くて、淫らで酷い大人でかまわない。でも、これは、ダメ。 「そんなの」 「ごめんなさい」  それ以上は言わないでください。そう気持ちを込めて、言葉を返した。  郁は、なんて思うだろう。僕はね、悪くてかまわない。淫らでいい。郁は? 哀れな青年……たぶん、それでいいと笑うだろう。  周りがどういおうとも。 「そんなの、間違ってる」  周りがどんなに責めて、否定しても。 「間違っててかまいません」  笑って言うんだ。 「我儘、なんです」  誰になんと言われても知らない。関係ない。 「郁が」  どうしても彼がいい。あの人がいい。 「好きなんです」  他なんて何にも要らない。誰も要らない。欲しくない。欲しいのはただ一人。そんな我儘を僕らは選んだんだ。 「どうして俺じゃダメなんですか」 「だって」  ――あっ! すごい、郁ってば、文くんのこと気に入っちゃったみたい。 「郁、じゃない」 「っ」  ただ、それだけ。 「最低だ。俺は」 「……」 「こんだけのこと言って、それでも、好きな人を泣かせることもできない、俺は、最低っすね」  成田さんはそう呟いて、大きな、青空みたいな背中を小さく丸めて去っていった。  僕は、何も言わず、追いかけず。ただ郁を思う、我儘で身勝手な大人だった。

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