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第61話 回覧板
林さん、気が付いた、よね。たぶん。
あの雰囲気、わかりやすかった。表情に滲み出てた。少し疑うような、少し嫌悪も混じるような、特に、僕への挨拶をした時の声には違和感がすごかった。
「嘘つき」
「嘘ついてません」
僕は朗らかに、郁は不貞腐れながら、けれど可愛く、散歩をしながら、今、口論の真っ最中だ。
「文の嘘つき」
「嘘ついてないってば」
郁がぶつくさ言いながら、大特価、お一人様一点までのティッシュペーパーをぶんぶんと振り回してる。
「乱暴しないの」
「なら、文も嘘つくなよ」
「だから、嘘ついてないってば」
午前中、洗濯掃除を頑張ったら、午後、出かけようかって、僕は言った。
「なぁ、午後出かけるって言ってたのさ、俺はこういうのじゃなくて」
お出かけは、お出かけ。でしょ? ほら、ちゃんと二人でお出かけしてる。うちから一キロもないかな。歩いて十五分のところにある薬局へ。
郁の想像していたものとは違ったかもしれないけれど。
「俺は、デートっぽいのがいいんすけどー」
「また今度ね」
帰ったら、もう布団取り込んだほうがいいよね。あまり長い時間干しすぎると熱が中にこもってしまって、逆に良くないから。それから、お風呂掃除もしておこう。
「映画とかさ」
晩御飯、煮物……は、郁あんまりだしなぁ。あ、ハンバーグもいいかも。
「買い物とか」
「後で」
「全部、後でじゃねぇか」
もう洗濯物乾いただろうなぁ。
今日は本当に暖かい。風がないからまだ大丈夫だけれど、これで強い風があったら満開の桜はすぐに散ってしまいそうだ。
「桜、満開だね」
「文?」
「桜、りょうちゃんの命日には散っちゃうかな」
花びらが雪みたいに降り注いだ日が葬儀だった。
「……どうだろうな」
二人で公園で見事に花を咲かせる桜を見上げた時だった。
「あ、あれ、林さんじゃね?」
「えっ?」
ほら、と郁が指差した先に林さんがいた。僕らと同じ、ティッシュペーパーを手に提げている。
こんちは、ってまた略した挨拶を朗らかにする郁に、林さんはほんの少しぎこちない挨拶をして、その場を去っていった。
「あの人が珍しいな。おしゃべりしないの」
「……うん。そうかも、ね」
郁は気が付いてないみたいだ。
でも、きっとあの人は何か察知してる。僕らの関係を。
「文?」
噂好きで、人のプライベートに関わる話が大好きな人だから、わかってしまったんだろう。
「文、どうかした?」
「……ううん」
でも不思議と胸はざわつかなかった。
「なんでもないよ」
不思議だけれど、僕が案外図太いんだろう。だって、もう、決めたから。
「され、次はお風呂掃除」
「は? マジで?」
「マジで。郁はお布団取り込んで」
「はぁ?」
誰になんと言われても、僕は、郁が好き。それを折る気も曲げる気もないと、もう。
「嘘つきー! っつうか、笑って誤魔化すなよ!」
もう、決めたんだ。
それから数日後、満開の桜がそろそろ少しの風にも花びらを一枚二枚、舞い落とし始めた。
「今日は遅くまでお疲れ様でした」
「いいえー、おやつにいただいたお饅頭分のカロリー消費したかしら」
んー、どうだろう。お饅頭三つ分は棚の整理くらいじゃ無理かもしれない。そう胸の中では返事をして、ニコリと笑っておくだけにした。
「それじゃあ、社長、お先に失礼します」
「気をつけて」
残業をしてくれたパートさんを見送って、仕事場の施錠をして。郁は今夜、そんなに遅くならないって言ってたから、晩御飯もう作っておかないと、だよね。でも、専門学校って課題が多いんだなぁ。いくつか見せてもらったけど、僕も一緒に学びたいって思えるものもたくさんあった。色の知識、デザインの多様性、などなど。ああいうの机上で習ったことがほとんどないから。
いつか、郁と一緒に仕事をするようになれたら、僕のほうが教えてもらうことがたくさんあったりして。
「ぁ、林さ……ん?」
「!」
「こんばんは」
「ぁ、あの、回覧板を……」
「あぁ、ありがとうございます」
玄関のほうへと首を伸ばしつつ、戸に回覧板を立てかけていたところで、気まずそうに手をパッと離した。
「……指輪」
「ぇ?」
離すというか放られた回覧板が、ぱたりと倒れてしまったのを拾い上げた時だった。僕の薬指に光る指輪を目ざとく見つけて、きっと無意識だったんだろう。胸のうちだけで零すはずだった呟きが声に出てしまっていた。
そういうの、よく気が付くよね。
だから、パートさんがいる間は指輪を首からさげているのけど、もう帰ってしまった後だったから。
「……」
指へとはめてた。
丸みのあるフォルムがとても着け心地のいい指輪。
「あ、あらぁ、そんな綺麗な指輪してらしたのぉ?」
「……」
「なんだか、ペアリングみたいだわぁ、なんて。でも、相馬さん、独身でしたものね。ほら、前に、お相手いるの? って。ハンサムなのにもったいないわぁって、ずっと思ってたけど」
「……」
不思議、だった。
「も、もしかして、そういうお相手が? でも、相馬さん、モテるでしょー?」
こんなに落ち着いてられるんだ。
「いえ……」
「ど、どんな方なのかしらぁ」
「ペアリングです」
「そ、それって」
折れないし。曲げない。
「今、大切な人がいるので」
そう決めたから。心は不思議なほど静かだ。
探り探り、けれど視線も言葉も、訊きたい、知りたいって、うるさいくらい。
「まぁ、それはすごくよかったわぁ。そういえば、郁君、もう高校卒業したのよね。おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
「進学?」
「えぇ、専門学校に。服飾系の」
今度は郁の側から。
「あらっ! じゃあ、もしかしてっ! 今後は一緒にお仕事を?」
そこで、じわりと手に汗が滲んだ。
僕は、いいよ。僕は、別に何を誰に言われてもいいよ。けれど、郁は……。
「でも、なんていうか、その、ねぇ……家族、っていうよりも? その、この前、花火してたでしょ? なんだか、雰囲気が。すごく仲が良さそうだったから。だから、一緒に仕事できるのねぇ」
郁は――。
「ほら、四六時中顔つき合わせるのなんて夫婦でも嫌っていう人多いじゃない? それに相馬さんにいい人がいるんなら尚更、ねぇ。三人でご一緒に住まれるの?」
三人じゃない。その良い人っていうのは郁なのだから、二人なんだ。けれど、そう答えたとしたら、郁も僕と同じに。
その時だった。「こんちはー!」って、明るい声が飛び跳ねるボールのように僕と林さんの間に勢い良く放り込まれた。
「ぇ、成田、さん?」
僕よりもずっと小柄な林さんは見上げてしまうほど背の高い成田さんが僕の背後から、会話を邪魔するようにボールみたいに言葉を投げ込んでくれた。
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