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第63話 我慢してたこと

 郁が言ってたけど、本当に男の子だったんだ。  僕と郁が恋人同士だとすぐに見抜いて、一日、気軽にデートを楽しめる魔法を僕にかけてくれた子だ。男同士で、歳がこれだけ離れた僕らをただ雰囲気と視線の交わし方だけで恋人だと気が付いた子。  ――私、男はこういうの、女はこういうの、日本人は髪が黒くて、瞳も黒くて、って言うの、つまらないと思うの。  そう言っていた。  そして、彼はその「なぜかそうと決っているらしい」事を自分自身を使って覆してるんだ。自分を使って、そうとは決っていない世界を表現してるんだ。  郁からうちの仕事を聞いたらしく、着物の切れ端でもいい、布を小さいものでもなんでもいいから捨てるのなら譲って欲しいと言われた。それから、プリントではなく柄を織っていくという工程もしっかり学びたいんだって。布は、まぁ、どうにかなる、かな。知り合いの反物屋さんに言えば都合をつけてくれるだろうし。織りは気長な作業だけれど、中学校の職業体験もやっているから。 「なんかスミマセンでした。色々と」 「ううん。こちらこそ、職場のほうも見てもらったせいで帰りが遅くなっちゃって」  片道二時間かけて来てくれたんだから、応えたくもなるよ。 「それじゃあ」  不思議で面白くて元気な子だった。やっぱり少しハスキーな声をした女の子に見えるけれど、自分を表現のツールにしているんだって。「決っていない世界」の表現のために。 「太市、送るよ」 「えー? いいよ。男だよー?」 「そういう問題じゃねぇよ。それと、道わかんねぇだろ」  そこで「あ……」と太市君が口をあんぐり開けた。そう入り組んだ道もないし、右左に曲がることも少ない道のりだけれど、初めてじゃ、むしろ街灯も乏しく、駅までの道しるべになるようなものが少ない田舎のほうが迷子になりやすいかもしれない。 「いいっていいって」 「っつうか、俺は俺で、借りてたディスクの返却もしたいんだよ」  たぶんそれは言い訳だ。だから待ってろって部屋へとディスクを取りに行ったけれど、まだ、それ返却まで数日猶予があるはず。遠慮している太市君を気遣ったんだ。 「ぁ、送るなら僕も一緒に行くよ」  だって、男の子だけれど帰り道わからない太市君も心配だし。それに、帰り道一人になる郁のことも心配だから。  結局、二人で見送ることとなった。そして、ただ帰るだけなのに、二人に付き添われることにも、その二人が恋人同士で、ほぼ夜の散歩デートみたいな道のりっていうことにも、太市君は「居心地悪い」と呟いた。 「いいから。ディスク持ってくるから、ちょっとだけ待ってろよ」 「はいはい」  もう観念したと太市君が肩を竦めて、玄関のところで、自室に戻る郁を見送る。階段を駆け上っていく後ろ姿を二人で見送った。 「あの……この前は、ありがとう。それと、今さっきのも」 「?」 「その、僕らのこと」 「あー……いや、別に、お礼を言われること、ひとっつもしてないっすよ」  ちょっとびっくりしてしまった。ずっと、その織物のことで相談してくれていた間もずっと女の子っぽい口調だったから、急に、男の子のような口調と声に。 「可能性は無限大、って思うタイプなんで。だから、織物、すっごい可能性があると思う」 「……」 「そういうのワクワクするっ」  少しだけりょうちゃんに似ていると思った。天真爛漫なところとか。 「だから、もったいないなぁって思っただけ」 「もったいない?」 「そう、相馬さんの織物も、郁の」 「?」 「わりぃ、待たせた。行こうぜ」  トントンと、聞き慣れた階段を下りる郁の足音がした。 「早くしてくれー。ここからまた二時間かかるんだぞ」 「あはは。ついて来たのそっちだろ。ほら、帰るぞ。田舎だから、電車の本数も少ねぇからな」  げ、マジで? って、驚く彼を置いて、さっさと郁は駅へ向かってしまう。それを慌てて追いかけようとしていた彼がブーツを履き終えると、スクッと立ち上がった。 「太市君!」 「?」 「あ……」  りょうちゃんに、似てたから、かな。いつもたくさん楽しい話をしてくれて、「ワクワク」をたくさん教えてくれる人だったけれど、彼女の目に映る世界はあまりに煌びやかで、壇上の上の人で、そして、春にしか来ない、幻のような、つかみ所のない人だったから。そのりょうちゃんに似ている太市君の言いかけた。  ――郁の。  その続きは、なんだか、訊かなかった。そして、ただ、笑顔で見送った。 「もう隠さないっつっただろ」  太市君を送った帰り道、夏になると虫たちの大合奏がものすごい公園の中を散歩していた。近道なんだ。中を。突っ切ってしばらく二人とも静かに歩いていたら、郁がぼそりと呟いた。  もう真っ暗。  でもこんなに見事に満開の夜桜を楽しめるほどには街灯がないからなぁ、なんて思っていたところだった。 「俺らのこと、専門行ったら隠さないって」 「……郁」 「なのに、さっき、戸惑ってただろ?」 「……うん」  矢面に立つのが僕だけなら別にかまわないけれど、一瞬、戸惑ったんだ。郁にはこれっぽっちだって、ほんの砂粒ほどだって、痛い思いをして欲しくなくて、躊躇ってしまった。 「むしろ、俺は言いたいのを我慢してたんだから」 「……」 「したかったこと、すっげぇたくさん我慢してた」 「たとえば?」  ほら、と手を大きく広げて僕の手前に差し出す。つまりは、手を繋ぐ、ということ? と、目だけで尋ねると、さらに手を前に差し出し、早くとねだってる。 「手を繋いで歩く」  郁のしたかったこと? 「あと、映画観て、ランチして、そんでウインドウショッピング? 水族館も行ってみたかったし。観覧車もいいな。てっぺん行ったらキスするとかさ」 「……」 「あー、あとそうそう、その映画館でもさ、ホラーとかで郁が、怖がって抱きついた時にキス、とか」  それはとても絵に描いたようなデートの様子。本当に、絵に描いたような。 「そ。とにかくデートしたかった」  郁の並べる、したかったけれど我慢してたことが、とてもロマンチックなものばかりで。 「なんだか、意外」 「なんだよ、意外って」 「だって」 「仕方ないだろ。ずーっと片想いで焦らされてたんだから」  我慢してた、したかったリスト、それはいつ頃からのものなのか。なんだか、思春期真っ只中の郁が思い描いていたって、って感じがする。 「他にもあるぜ? 壁ドンだろ?」 「は?」 「床ドンも」 「何それ」  思わず笑ってしまった。 「花火大会に浴衣デートでイチャラブだろ? クリスマスにはケーキの生クリーム使ってエロいことだろ? それから」 「ちょ、ちょちょ」 「あと、姫始め」 「なっ!」  さっきまでの思春期真っ只中はどうしたの? って、でも、そういう妄想も思春期の男子はする、かな。 「何言って」 「仕方ねぇじゃん」  もう、と呆れると楽しそうに笑った。口を大きく開けて。ずっと繋いだままだった手をブンブン振りながら。 「だから、今日は一つ叶ったな」  秘密にしていた恋を秘密にしない。 「ぁ、それともう一個叶った」 「?」 「夜の散歩デート」  繋いだままの手を引かれ、キスをした。外で、夜の公園で。 「っ……郁」 「まだいっぱい叶えたいから付き合ってよ」 「……」  夜の公園はとても静かだ。はらりはらりと落ちる舞い落ちる花びらが地面に触れた音もしそうなほど静か。そして、その静かな公園に響くキスの吐息に混じる優しく色っぽい郁の声。 「じゃあ……ねぇ、郁」 「?」 「次は」  壁ドン、はどう? そう告げながら、キスをした。  真っ暗だから、きっとそう見つからないでしょう? けれど、そんな光の乏しい公園だったから、わずかな月明かりすら飲み込んで自分のものしたように桜が夜空の中で、自ら発光しているかのように浮き上がって、郁の頭上を照らしてた。  それはとても、息を呑むほど綺麗だった。

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