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第64話 素敵な
どうかなぁって思ったんだ。
あの時、郁が来て、僕らは恋人同士でもあると、もうその関係性を隠さず話した後、僕らはその場を離れてしまったから。
でも、パートさん、変わりなかった。
朝の挨拶して、いつもどおり、いつもみたいに淡々とその日の仕事をしていく。いつものペースで、いつもの時間にお昼休憩をして、大体同じ時間に来る配達を受け取って。
何も、変化はなかった。でも――。
「素敵って……言われちゃった」
指輪をさ、午後、お茶休憩の時におすそ分けしてもらったカステラを食べてたら、小学生のお子さんがいるパートさんがさ。
――その指輪、素敵ですね。
そう、言われた。
もう散り始めた桜の花びらをほうきで掻き集めながら、手をパッと広げて、指輪を眺める。
まだ、真新しい指輪が夕方、西日の中、キラキラ光り輝いていた。
言われたのはたったのそれだけ。素敵ですねと言ってくれたから、ありがとう、って答えただけ。娘さんが美容師になったパートさんはニコリと笑っていた
「……」
知ってるのに、素敵って。
「こんにちは」
「……」
玄関先、門のところから声をかけられて振り返ると、成田さんがいた。昨日の今日で、度々すんません、って気まずそうに会釈をしている。仕事を終える時間くらいに、手ぶらで現れた彼は本当はとても背の高い人なのに、今日は少しだけ小さく感じた。
「あの後、大変でしたよね。成田さんをあの場に残してっちゃったから。お隣の林さんと」
「あー、いえ」
「平気でした?」
「あのっ」
だってパートさんはもう知ってた。ってことは、林さんが教えたんだろう。いいけれど。言いふらさないけれど、隠すこともないから。
「僕らのこと、フォローしてくれようとしてたのに。ありがとうございます」
「あのっ! 俺」
「……」
「俺は、あの時隠そうとしたんすよ」
「……はい」
うん。かばってくれていた。追求したくて仕方ない林さんの好奇心から僕を遠ざけようとしてくれていた。
「けど、郁君は隠そうとしなかった」
「……はい」
「俺は……」
遠ざけても、遠ざけてもあの好奇心はきっと追いかけてくるんだろう。目を見開いて、耳をそばだててさ。
「俺にはできないって思いました」
「……」
「きっとできない」
それが一般的なんじゃないかな。そして、そのほうが誰もが平和に過ごせると思う。
「俺なんて入れる隙間ないってわかりました」
「……でもそれは」
「郁君はなりふり構わず、相馬さんを大事にする」
「……」
「きっと、一瞬だって迷うことなく、貴方を最優先に守る」
「……」
「勝てないって思いました」
成田さんが顔を上げると、目尻が少し濡れていた。声も震えている。
「それだけ、伝えたかったんす」
「……」
「それじゃ、失礼します」
僕も。
一瞬だって迷うことなく、僕も何よりも、誰よりも郁を一番に守ります。僕は守られるだけの存在じゃないんです。
「文」
「……」
「今、あの人来てた?」
「うん」
生まれたての君が僕に真っ直ぐ手を伸ばして笑ってくれたあの日から、ずっと、僕は。
「おかえり、郁」
「文」
「ねぇ、郁、言われちゃった」
ずっと僕は、郁をとても、愛してる。
「指輪、素敵ですねって」
「……」
「今日ね、仕事場でもずっとつけてたんだ」
指のところでずっと光り輝いていた。キラキラしてた。それが嬉しくてさ。つい顔がほころんでしまってね。それでね。
「そしたら、素敵ですねって、パートさんに言われちゃった」
そう言われた時も、すごくすごく嬉しくて、思わず照れ笑いしちゃったほどだったんだよ?
「すげー、キレー」
最初、赤が灯って青に変わって、白になって。シューシューと音を立てながら、勢い良く花火の火が地面に向かって水みたいに流れていく。
「なぁ、文、次、これやろうぜ」
「いいよ。じゃあ、競争しよう」
「オッケー」
桜が雨のように降り注ぐ日、去年の四月十五日、りょうちゃんに、僕の両親に、天国にいる彼らにも楽しめるようにと花火をした。
「せーのっ」
今年も花火が良く見えるだろうか。
パチパチと楽しげな音に気が付いて、こっちを上から覗いてくれてるだろうか。
「やた! 郁の終わった!」
見えてたら、何を、上で三人話すのだろう。あら、あの二人、手を繋いでるって驚くかな。りょうちゃんは「やっぱり」って笑っていそうだ。郁が僕のことを大好きって教えてくれたのはりょうちゃんだったから。
「はぁ? なんか、火薬の量ミスってんだろ」
「いやいや、日ごろの行いじゃない?」
「なら、断然俺が勝つ」
郁が買ってきてくれた。駅前の、高校生の時、アルバイトをしていたコンビニで花火セットの一番たくさん入っているものを。打ち上げ花火や、爆竹は隣の林さんがびっくりしちゃうでしょ。でも、こんなにはしゃいで、花火で競争してたら、ちょっと怒られるかな。
「郁、すごいたくさん買ってきたね」
「あぁ」
「まだまだある」
「去年、すぐなくなっただろ?」
そう、だったかな。でも、あれもけっこうたくさん入ってたと思うんだけど。中学生の郁とやろうと思って、ワクワクしながら買ったんだもの。
「あっという間になくなるし、お隣さんが出現するしでさ。できなかった」
「……」
「花びら」
今日ももう満開をすぎた桜は雨のように舞い降ちて。庭を掃いても掃いても薄ピンク色の絨毯になる。
「文の頭に花びらがあるっつってさ」
――文に触りたかったっつったら、どうする?
「あの時」
どうすると尋ねられたけれど、答えらえなかったんだ。外だったし、僕らはまだ、だったから。
「戸惑ってただろうね」
「……」
「答えに困ってた」
「……だよな。下手くそかよ、俺」
「でも、すごく、ものすごーく」
心臓が胸のうちで大暴れをして、呼吸もものすごいせわしなくて、きっと郁に見惚れてた。
「ドキドキしてた」
「……」
「ね?」
ずっと手を繋いだまま花火をしてたんだ。繋ぎたかったから、繋いでた。その手を引っ張ると、悔しいことに僕より背の高い郁が前かがみになって、ちょうど耳が僕の胸の辺り。
そして、聞こえただろう鼓動。
忙しくて慌ててあっちこっちに飛び跳ねている音が、ね? 今みたいに、あの時も、していたと思うんだ。ドキドキって。
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