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第76話 イヤ、なの

 お金はけっこうです。いりません。  そう言ったんだ。まるでドラマみたいに、郁の、本当の家族が、今まで世話になったわが子の養育費だと分厚い茶封筒を差し出してきた時、そう言った。  僕は自分の膝に置いた手を一ミリだって動かさずに、いりません、と。  だって、きっと、あの人は僕から郁を奪ってしまうでしょう?  ありがとうございましたって言われたんだ。ここからは実の父親である自分がいるから安心してください。そう言いたそうだった。ううん。言おうとしてた。  厄介だなんて思ったこと、ほんの少しだってないよ。郁と暮らした毎日の中で、疎ましく思ったことなんて一度だってない。とても大事な――。 「……」  僕にとって、とても大事な、人、なんだ。  ――ですが、この相馬さんのご自宅から、あの専門学校までずいぶんとかかります。往復二時間はとても無駄だ。たいしたこともしてこなかった、ろくでもない血縁者です。父親として失格なのは充分に承知しています。だから、せめて、彼のこれからを支援したいと考えています。  彼が本当にろくでもないお父さんだったらよかったのに。  学校の近くにセキュリティーのしっかりした単身者用のマンションを用意してある。学費のほうも負担するつもりでいる。織物科ということだったが、留学などの特別カリキュラムにも本人が望むのであればいくらでも支援する予定だ。  ――ただ。  ぽつりと、野間さんが呟いた。  完璧なまでの提案をして、けれど、それを覆すように、言ったんだ。  ――少しだけ、現状や、今の環境は、彼の才能を潰してしまってやしないかと。  野間さんは、ぼそっと呟いて、真っ直ぐに前を見つめていた目を伏せた。  彼女は、才能に溢れた女性だった。その血をたったひとり受け継いだ彼は、世界で活躍する才を持っていると思う。それを使わないのは、もったいないようにも思うんです。  そう、野間さんが寂しそうに笑った。  心臓を、鷲掴みにされたみたいだった。  狭くて、なんにもないくせに、何かをしようとすると窮屈なこの場所、その中でただの織物屋で日々働いて暮らす。それは郁には不釣合いだと。まるで、僕には郁が不釣合いだと言われてるような気がした。  りょうちゃんの血を受け継いでる。  あんな大きな劇団のオーナーになれる才覚を持った人の血も、受け継いでいる。  それだけでさ、郁がすごいってわかるのに、僕が実感できる郁のすごさなんて、笑っちゃうほど小さい。  居眠りしている郁の背後から覗き込んだ数学のノート、ちんぷんかんぷんだった。塾も家庭教師も何もしていないのに、学校の先生でさえ「もったいない」というほど頭が良かった。  二人乗りの自転車、僕が後ろでどれだけ暴れようがちゃんと走れる。僕だったら、両足を地面から離した瞬間、バタン、って横転だよ。  料理が上手くて、字も綺麗で、勉強も運動もできて、その上、カッコいい。  ね? 僕が実感できる郁のすごさなんて、ちっぽけでスケールが小さい。もうこの時点で、郁と僕は不釣合――。 「ただいまー」 「!」 「ふみー、駅前んとこのスーパーで刺身がめっちゃ割引されてた」 「……」  郁だ。 「刺身、保冷材なくてもたぶん大丈夫だろって、そのまんまで来ちゃった」 「……」 「ダメだった?」 「……ぁ、ううんっ、大丈夫じゃない? 今日、冷え込んでるし」 「誰か来てた?」 「ぁ」  すごく寒かったもんね。グレーというよりシルバーのフェイクファーのストールを別の学科の人が試しに作ったんだけど、なんだか気に食わなかったらしくて、くれたんだって。それをまるでモデルみたいにふわりと巻いてさ。  だって、りょうちゃんの息子だもん。センス良いに決ってる  だって、あんなカッコいい紳士がお父さんなんだもん。そりゃ、カッコいいに決ってる。 「文?」 「! あっ、あのっ、町内会の人がっ! その、来年の役人にならないかって」 「文に?」 「う、うん! そう、でも、来年はたぶん花火大会の委員もあるし、忙しそうだからって……お手伝いならできるかと、思うけどって」  僕は、隠して、しまった。 「……」  郁が目を丸くしてた。  綺麗で、澄んでいる郁の瞳に、僕のちっぽけな我儘でできた嘘はすぐに見破られてしまいそうで、思わず目を逸らしてしまう。 「……ダ、ダメ?」 「いや……」  心臓がドクドクと慌しくて、爆発してしまいそう。 「……文、断れるんだなぁって思っただけ」 「え?」 「だって、文ってなんでもかんでも、ふわふわ笑いながら了承するじゃん。花火大会もそう、クリスマスの町内会イベントもそう。だから、断れるってびっくりしただけ」 「……」  断れるよ。 「あ、けど、再来年は受ければ?」 「さ、来年? なんで?」  本当の本当にイヤなことなら、ちゃんと断れる。 「そしたら、もう、俺、ここで仕事してんじゃん。町内会の役員やるのだって、そん時のは二十歳だし俺も参加できるでしょ? 仕事の補佐だってできる」 「……」 「だから、次、また勧誘来たら、再来年なら二枠、うちでやりますよって、言えば? 文、風呂、沸かすよ?」  再来年? そっか、そしたら、もう郁は二十歳で、成人式だって終わってる立派な大人だ。何をするのだって自分で選べる。仕事をして、自立して、そしたら――だから、二年くらい我慢すればいいんだ。  ねぇ、郁、実はね、郁の本当のお父さんが今日、うちに来たんだよ? 君の保護者としてずっと一緒に暮らしていた僕に丁寧に挨拶をして、労いにと、すごい大金を持って来たんだ。あのりょうちゃんが好きになっただけのことはあるよ。カッコよくて、優しくて、素敵な人だった。  郁にとても似てる。  誠実そうな人だったよ? きっと、当時、どうにもならない色んな問題があって、郁を探し出せなかったんだ。だから、責めないであげてほしい。  りょうちゃんのことをとても大切にしていたんだと思う。  そして、郁のこともとても大切に、今、思っている。  だからね、郁の通っている専門学校の近くに、セキュリティーもしっかりしている単身者用のマンションを探してくれたんだって、学費の心配もいらない。きっと今よりもずっと良い暮らしができるよ。  僕はここで待ってるから。  血の繋がった本当のお父さんのところに行って平気だよ?  二十歳になったら、その時は、僕のところで仕事をして? そして、また一緒に――。 「刺身、冷蔵庫入れとく? それとも先に飯にしちゃう? 来客あったんなら、飯の……準備、まだ」  二年後に、また一緒に暮らせばいいよ。 「……文?」  僕は郁だけだから、ここで待ってる。あっという間だよ。二年なんてさ。 「なに……?」  だって、僕らはすでに一年我慢したんだから。 「先に、したら、ダメ?」 「……」 「っん、郁と、今、したい、の」  僕は、きっとそう言って、イヤだと突っぱねる郁をなだめて。 「抱いて……郁」  すかして。 「ふ、み」 「ン……郁」  お父さんのところに返すべきなんだろう。 「郁」  けれど、イヤだった。  だから、断った。  ――今日のところはお引取りいただけませんか? 郁も急な話に混乱すると思うんです。来週締め切りの大事な課題があると言っていたので。  誰にも、渡したくなくて、慌てて自分の背中に、大好きな郁を隠してしまった。

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