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第75話 父

 とてもカッコいい人だなぁと、思ったんだ。本当に「紳士」っていう言葉がぴったり来る人で、上等なスーツが良く似合っていて、素敵だなって。  そう思いながら、僕の生まれ育った場所では絶対にお目にかかれないと思う「紳士」を眺めてた。  文化祭の日、学校の案内図のところにいた、その人を。 「坂城郁の父です」  その人は、郁の父だと名乗った。 「郁の……」  僕は、あぁ、たしかに、目が似てるって……思ってしまった。  りょうちゃんは毎年、春にだけやってくる美しい人だった。子どもの頃なんかは、本当に春にしか現れないから、もしかしたら、うちの庭に咲き誇る桜の妖精なんじゃないだろうかって、そう疑ったりするくらい。夜に、こっそり、りょうちゃんが寝ているのを覗きに行っては、ちゃんとその布団のところに彼女を見つけてホッとしたりなんかして。  そのくらい美しく、そして生き生きとした彼女がある日、突然、赤ん坊を連れてやってきた。  ――ちょっと、まだ首も据わってないじゃない。  母がそう言ってたのを、思い出した。  生まれたての赤ちゃんを外に出してはいけないんだぁって、まだ中学生だった僕は思ったんだ。少しびっくり、したと思う。  けれど、そんな外に出してはいけないくらい小さな、触ってはいけないのだろう、もっともっと注意して大事にしないといけないのだろう小さな赤ちゃんが笑ったんだ。  瞳をこっちに向けて、ちっちゃな柔らかい手をこっちに伸ばして、笑った。  ――あっ! すごい、郁ってば、文くんのこと気に入っちゃったみたい。  郁、っていうんだ。  そう思った。  母であるりょうちゃんが楽しそうに、嬉しそうに、腕の中にいる郁をゆらゆらと揺り篭のように揺らしながら、僕のほうへと向けて、郁が笑って。  僕の指を一本、ぎゅっと握ったんだ。手を、繋いだ。  抱っこをすると柔らかくて温かくて、優しい気持ちになれて幸せだった。  それから毎年、毎年、春が、桜が楽しみで、学校帰り、庭の蕾が膨れるのを待ち焦がれていた。  ――おーい! 文くーん!  長い手をぶんぶん振りながら、長い脚で踊るように駆け寄るりょうちゃんと、まだまだ小さかった郁。  ――おかえり、りょうちゃん。おかえり、郁。  ――! た、たたいま、ふみにぃ。  けれど、一度も、お父さんは一緒に来たことがなかった。 「急に、大変失礼致しました。こういう仕事をしております」  その人がテーブルの上に置いた名刺、名前の左上を読んで僕は目を丸くした。 「私はそこの劇団を経営しております」  太市君が言ってたっけ、僕がとてもカッコいい人がいたと話したら、業界の人じゃないかなぁって。僕はてっきり芸能人とか、俳優の類だと思ったけれど。だってそのくらいに、この野間さんという男性はカッコよかったから。  けれど、もっとすごい人だった。  僕でも知っているような超一流劇団の人。  前にテレビコマーシャルで世界進出とか言ってて、へぇ、すごいなぁ、と僕らには手の届かない天空の話のように見上げてたけれど。 「あ、の……」 「りょうはうちのダンサーでもありました」  そんな話をしてたっけ。  どこかの大きな劇団に招かれたって。そっちで暮らすことになるから、郁は都会の小学校に上がるんだと話してくれた。 「郁が小学校に上がる頃、ようやく私は、その……前の妻と離婚が成立したのです」 「……え?」 「お恥ずかしい話です。だらしのないことだと……りょうさんと知り合ったのは、まだ僕がダンサーだった頃でした」  野間さんはとても言いにくそうに眉を寄せて、けれども目を逸らすことなく話してくれた。  踊りを通じて意気投合し、奥さんがいる身でありながら、どうしようもなくりょうちゃんを愛してしまったこと。身篭ったりょうちゃんが自ら身を引き、一人で育てると決めたこと。その後、自分のだらしなさ、不甲斐なさを悔いて、今の劇団のオーナーとなり、離婚が成立して。 「りょうさんを必死に探して、ようやく見つけたのが、郁が小学生になる直前でした。劇団に招いて、一緒に暮らすことになって」 「……」 「けれど、しばらくして、前の妻が床に伏せていると聞いたんです」  身を引いたのはりょうちゃんだった。前の奥さんが今でも愛してるのは野間さんだと感じて、家をそっと出ていってしまった。 「もう……りょうは、いないんですよね……」 「……」  野間さんが悲しそうに笑った。もうその表情だけでとても悲しい思いをしたんだとわかる。  りょうちゃんとの再会を願って、もうここにないとも知らず、ずっとずっと探していた。  きっと地位も名誉も、たぶんお金だってたくさんあるだろうこの人がどんなに探しても、見つからなかったくらい、あの人は隠れていた。  りょうちゃんの話はいつだってワクワクして楽しくて、僕が会えない間の郁の話も聞かせてくれるのがとても嬉しかったけれど。  郁のお父さんのことは一度だって、ほんの少しだって話してなかった。 「スタイリスト科の、今太市(こんたいち)という学生をご存知ですよね」  きっと、りょうちゃんはりょうちゃんで、贖罪から野間さんにはもう会わないと決めていたんだと思う。  愛の深い人だったから。前の奥さんから愛する人を奪った罪悪感が重く、彼女にのしかかったんだ。 「彼の作品のところに相馬織物とあった」 「……」 「りょうが、彼女がよく相馬という名を話していたのを覚えていたんです。遠い親類で織物をやっていると」  この人が、郁のお父さん。 「まさか、と思いつつ、彼とコミュニケーションを取っていくと、相馬織物という名を聞き、そして、文化祭の写真の中で、学生を見つけました」 「……」 「郁、だと、すぐにわかりました」  うん。すぐにわかる。  だって、瞳なんてそっくりだもの。 「郁を引き取って育ててくださり、本当にありがとうございました」  声も似てる。いくらか郁のほうが澄んでいるけれど。 「……いえ」  ありがとうございました。そう言われてしまった、それは、今ここまでで何かが終わったような、音が、繋がりが、切れたような言い方で。まるで――。 「これは、今まで、郁のためにとかけてくださったお気持ちのお礼に」  まるで、もうここで用済みだと、言われているようで。 「いりません」 「……え?」 「お金は、いりません」  僕は自然と膝に置いた自分の掌に爪が痛いほど、力を込めて握っていた。

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