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第78話 僕は僕
「へっくしょんっ」
あぁ、もう。
「風邪? 文ちゃん」
「へくっ、げほっ、ごほっ」
「だ、大丈夫? 文ちゃん」
太市君が僕の背後に回り込み、背中をバンバン、けっこう強めに叩いてくれた。咳き込んでる時は叩くんじゃなくて、さする、のほうがいいかなって、思うんだけれど。叩くのは、お餅とか喉に何かを詰まらせた時だと、僕は思うんだけれど。
もう文化祭は終わって織物をする必要がなくなったはずの太市君はごくたまにだけれど、うちへ遊びに来るようになった。
「ごめ、大丈夫」
「もー、郁は風邪引いてるハニー置いてどこ行ってんだ」
「ハニーって」
思わず赤面してしまった。そして熱があるのかと心配そうに、綺麗な顔をした太市君に覗き込まれて、居心地の悪さからつい目を逸らしてしまう。
女装も似合ってしまうような美少年とのにらめっこは。アラフォーの僕には到底無理そう。
「ぃ、今、郁は塗料屋さんのとこ」
「仕事?」
コクンと頷く。
風邪、引いちゃった。って、そりゃそうだよね。居間のこたつでゴロ寝なんてしてたら、風邪引くに決ってる。しかも、たぶん途中で暑くなって切ったんだ。汗はかくし、そのあとコタツはスイッチを切っているからどんどん冷えちゃって、風邪引かないほうがおかしいくらい。
本当、馬鹿なんだ。
朝、僕を起こしてくれた郁も目を丸くしていた。
なんでこんなところで寝てるんだって。一緒に布団に入ったはずなのにって。
そして、そんなふうに風邪を引いたことを自業自得だと苦笑いになる自分がいた。好きだからって、僕に郁の全てを自由にしていいわけじゃないのに。郁にとって、世界でたった一人の肉親なのに、その人から郁を隠してしまうなんてことをしたら、バチが当たるに決ってる。
「でも、意外……」
「へ?」
胸のうちに隠し事があるからかな、太市君の言葉一つに身構えて、ハッと顔を上げる自分がいる。
「文ちゃんって、ちゃんとくしゃみするんだね」
「は? それ、どういう」
「んー、なんていうか、可愛い人だから、くしゃみも、へっくちゅ、とか、くちゅっ、とか、へっ、で終わっちゃったりとか、するのかなぁって」
「……」
「けど、立派なくしゃみでしたわ」
オホホホ、なんて笑いながら、太市君がドラムでも叩くように織機をリズム良く動かす。
「それに、可愛くなんて」
「それがぁ、可愛いって大絶賛してる人がうちの学校にいるんだよねー」
太市君が、ふふん、と目を細めて笑った。
その大絶賛している人っていうのは郁なのだろう。
「恋人がいる」
「……」
「いつもはそうたくさん話すほうじゃないけど、その恋人のこととなると、嬉しそうに答える」
「!」
「……と、有名な話です」
「なっ」
また、ふふん、と笑って、今度は楽しそうに織り機を動かし始めた。もう散々やったから、手馴れたものだ。
「ラブラブすぎて、もう、あれは一年中お花畑だなって」
「……そんな」
織り機の安定した一定間隔に鳴る音の隙間に、僕のか細く不安気な声。
「……そんなこと」
ない、と、今、僕は。
「なんか、あったの?」
「え?」
「今日、ずっと、文ちゃん、つまらなさそう」
「! ごめっ」
太市君が織り機の立てる音を口真似しながら、自分の手を左右に動く糸の代わりに、まるでピアノ演奏かのように、ヒラリ、ヒラリと揺らした。
「……なんか、ね」
初めて、だったんだ。初めて、罪悪感に息すらできなくなりそうだった。僕といるせいで、ここに、郁を閉じ込めているせいで、輝かしい可能性を切り捨てさせている。僕とする行為は、とてもとても悪いことで、野間さん、実の父からしてみたら。
「っ」
……郁のことをひどく、おとしめてるように感じた。
「なるほど」
あの子を、僕は。
「顔を上げて」
「……太市、君」
上を向きなさいって、顎をつかまれた。
そこには太市君の赤い髪があって、燃えるように深い赤色は強く攻撃的で、そして凛々しい。カッコいいなぁと思う。
「ね? 文ちゃん」
「……太市君みたいに、なれたらね」
君みたいに自信に満ち溢れて、前を、自分の選んだ道を進める人間に。
「んー、けど、文ちゃんは、文ちゃんなんだよ」
「……」
ぽつりと呟いた僕の言葉に、太市君は寂しそうに笑って、同じように、ぽつりと小さく元気のない声で、そう言っていた。そう言われてしまった。
上等なスーツを着れば、誰よりも紳士な人間に。髪を赤く攻撃的にすれば、誰よりも強い人に。金色にすれば、華やかで誰よりも煌びやかな人に。そしたら、僕は郁の隣にいることに自信が持てるんだろうか。
「……」
少し、髪、伸びたなぁ。自分の前髪を指先で摘んで引っ張ると鼻先と同じところまで来ていた。もうこんなに長いのかと、改めて驚いて、じっと観察する。
「文―、今日、成田塗料のとこで、サンプルカラーもらっ……」
「……」
「郁? どうかした?」
「んーん、髪、伸びたなぁって思って」
僕は、僕、かぁ。
「髪、伸ばそうかな。あ、それとも、太市君みたいに染めちゃうとか?」
そしたら、僕だって少しくらいは、あか抜ける?
「どう思う?」
「そんなん、似合わねぇよ」
田舎の小さな町工場を営む僕でもさ。
「……そっか」
野間さんに郁を奪われないで済むかなぁって思ったんだけど。
「そうだよね」
僕じゃ、どう頑張っても無理、だよね。
ほら、髪を伸ばしたくらいじゃ女の子には見えやしない。だから、きっと、赤く染めようが金色にしようが、どれだけ高いスーツを着ようが、僕は、今、鏡の中にいる、特別な物なんて持ってない、ただの、何の変哲もない、僕のまま。ずっとずっと、僕は僕のまま。
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