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第79話 ねぇ、いいの?

 こんな場所、不慣れすぎて戸惑う。  あっちにもこっちにも高級ブランドの看板が並んで、指紋一つないガラスの箱のような店内、その中には、煌びやかな洋服やバッグに靴。まるで店一つ一つが高級な宝石箱みたい。石畳の歩道に添って並んでいる街路樹すらお洒落に思えた。その枝一つ一つに照明ランプが巻きつけてあるから、きっと夜になれば映画のワンシーンのようなイルミネーションが見られるんだろう。木なんて自分の家の周りにイヤというほど生えているのに、まるで違ってる。  そんな街を行き交う人の、マフラー一つ、コートにしたって、僕との身分違いを感じてしまう。 「お呼び立てして申し訳ありません。相馬さん」 「……いえ」  そんな宝石箱の一つに招かれて、中へと、奥へと進めば、シックでモダンな個室へと案内された。ガラスのテーブルにガラスの衝立。まるで氷の世界みたい。  この人と、この人の住んでいる世界と自分の間にひどく距離を感じる。 「外、寒かったでしょう?」 「……いえ」 「どうぞどうぞ座ってください」  店のスタッフが手を差し伸べて、コートを受け取ってくれた。待ち合わせた時間がちょうどランチタイムだったからシャツにカーディガンを選んでしまったけれど、これじゃあスーツのほうが幾分かマシだったかもしれない。 「何か、飲まれますか? お酒は……」 「いえ、昼、なので」 「あぁ、そうですよね。その、お忙しい中、大丈夫でしたか?」  大丈夫じゃないです、と言ってしまいたいのを堪えて、えぇ、とだけ答えた。  本当のところをいえば、急な出張だと嘘をつくのは心地良いものじゃない。パートさんにも、郁にも、小さな罪悪感を感じてしまう。  それでなくても、罪悪感を感じてしまってることがあるのに、これ以上、そういうの、増やしたくない。  だから、野間さんと会うことだけを伏せておいた。それでも、また一つ増えた隠し事に息苦しくなる。  ――いってらっしゃい。今日は都内のほうで品評会に出席すんだっけ?  うん、と頷いたけれど、郁の顔は見られなかった。  ――あんなとこで呉服の品評会なんてあるんだね。知らなかった。  僕もそんなの出たことないよ。品評会なんて嘘っぱちだもの。本当は、郁のお父さんと会うんだよ、と胸のうちで懺悔した。  パートさんにも、嘘をついてる。今日は一日不在だと伝えてしまった。  電話を野間さんからいただいたのは一週間以上前。野間さんが前の時と同じようにうちへ尋ねてもいいかと、会社のほうに電話をかけてきた。だから、僕が出向くと言ったんだ。  じゃないと、郁に会ってしまうかもしれないから。 「郁は元気にやってますか? 学校の成績はとてもいいそうですね」 「どうして……それを……」 「ファッション関係は知り合いもたくさんいるんです。そこ経由で色々と話は……すみません。裏でこそこそ調べるようなことを」  いえ、そう首を横に振った。親なんだ、子どものことを気にかけるのは当たり前だ。  親、なんだから。 「そろそろ二年生だ」 「……えぇ」 「……」  わかってる。自分がするべきことをちゃんとわかってる。けれど、イヤだって気持ちが言うんだ。 「郁に、その……私のことを……」  話したら、郁は、どうするのだろう。お父さんのところへ行ってしまうのだろうか。僕とのことは、隠すのだろうか。  いや、きっと彼は僕の隣にいてくれる。隠さず話そうとする。愛してるんだと、言ってくれると思う。  でも、それで、いいの?  いいの?  こんな都会のど真ん中にいることすら居心地の悪いような田舎育ちの僕の、小さな町工場主の僕の隣で、いいの?  りょうちゃんの、この野間さんの血を引いている郁には僕の両手じゃ零れて落としてしまうほどの才能がきっとある。それを落として捨てさせてしまうの?  それは、とてももったいないことなんじゃないの?  本当に愛してるのなら、その人のことを思って、その人のためになることを選ぶべき。 「そうだ。来春、織物の伝統工芸が盛んなヨーロッパへの留学募集があるそうですね。それは郁にとってはとても良い機会なんじゃないかと思うんです。もちろん資金は私のほうで用意します」  ねぇ、選ぶべきなんじゃないの? ほら、こんな経済力、そう容易なことじゃないだろう? けれど、野間さんにならできる。野間さんなら、郁の可能性をいくらでも広げてあげることができる 「相馬さん?」  僕よりもずっと郁の可能性を。 「郁は……郁、には」  僕は、僕なんかじゃ、郁にとって。 「文!」  飛び上がるほど、驚いた。ガラスの扉の向こうに郁がいて、こんな透明な扉をそんな力いっぱい叩いたら割れてしまうのではないかと心配するほど。  そして、僕も野間さんも目を見開いて突然現れた郁を見つめた。 「……文」 「あ、郁なんでっ」  なんで、こんなとこに。 「それはこっちの台詞だ! なんで、俺の父親と一緒にいんだよっ」 「! 郁、知って」  知っていた? 野間さんがお父さんって。 「そりゃ……覚えてるだろ。数年だろうと、一緒に暮らしてたんだから。それの前にだって、母のレッスンの時にいたし。しばらく見ないうちに老けたとは思うけど、わかるっつうの」 「……」 「っつうか、俺はてっきり……」  郁がその場にしゃがみこみ、地面に、大理石の床の上に大きな溜め息を一つ落っことした。 「てっきり、なんか、あんのかなと」  溜め息を落っことし終わると、顔を上げて、真っ赤になってしまった頬も隠すように口元を手で押さえて、僕から目を逸らす。  なんかって、何? あんのかなって、何が? 「…………え? ちょ、な、何をっ?」 「だから、ナニを、だよ」 「いっ、郁っ!」 「っぷ、あはははは」  今度は、心臓が口から飛び出すかと思うほど、野間さんの大きな笑い声に驚いた。 「いや、急に笑って申し訳ないです。私は、郁に心底嫌われてるんだと思っていたので、ホッとしたんです」 「そ、そんなっ」 「貴方はとても優しそうな方だから、実の父親として失格は私と、その私を嫌っている郁の間で板ばさみになっているんだと。でも、違ったようで、よかった」  よくないでしょ? だって、自分の息子が。 「よかった……」 「野間さん」 「よくねぇよ」 「い、郁!」 「あんたは誰にでも優しくしようとして、誰のことも中途半端だったと思ってる」 「郁!」  郁はたくさん走ってきたんだろう。慌てふためいて忙しそうにしていた呼吸を整えると、顔をしかめながら、膝に手をついて立ち上がる。 「俺は文だけだ」 「郁ってば!」 「優しくすんのは」  ダメだよ。郁にはたくさんの可能性があって、僕なんかじゃそれをちゃんとしてあげられない。君にとって一番の悪い影響を与えるのは。 「あぁ、そうだね。だからとても」  僕が一番悪いんだ。とてもとても悪い大人なんだ。 「とても、よかったって、思ってるよ」  とても――。

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