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第80話 僕は、僕

「思うだろ? 朝、今日のことを訊いた時、思いっきり嘘ついてますって顔してた。今までそんなこと言ったことないのに、髪伸ばそうなかとか、太市みたいに髪カラーリングしようかなとか、いきなり言い出したら。あの太市だぞ?」  朝、だって、嘘ついてたもの。  そんなに顔に出てた? 髪伸ばそうかなとかたしかに思ったことなかったけれど。でも、あの太市って、それはちょっと失礼でしょ。彼、カッコよくて綺麗なのに。  ずっと同じ散髪屋さんで同じように切ってもらっていた。普通の、一般的なヘアースタイルだった。  それが急に、そうだね、三十五歳にしていきなりイメチェンは何か一大決心がたしかにありそうだけれど。 「マジ、ビビったんだ……」  郁が乗り換えの電車のホームで、白い吐息を口元に二つ三つと広げながら、ポツリと呟いた。 「この前、なんか誤魔化されたし」 「僕に?」  いつ、大事な郁のことを誤魔化したんだろう。 「色気で誤魔化された」 「……!」  それは、この間のこと。野間さんがうちに来て、僕は郁を取られてしまうと、焦った時のこと。 「まぁ、その色気にほいほい誤魔化されたけど」 「い、郁ってば!」  ここはまだうちの中じゃないよと慌てると、その様子に笑った。緩んだ口元から零れるふわりとした吐息の白がなんだか優しい。 「でも、その次の朝、俺と一緒に寝るのがいやみたいに、居間で寝てるし」 「あ、あれは!」  野間さんからもらった名刺をどうしようかと。 「そんで風邪引いてるし」 「それは……」  馬鹿でも風邪を引くんだ。いや、馬鹿だから風邪を引いたのかも。 「だから、俺は捨てられるのかと思った」 「そんなわけっ」 「あっても、くっついてくけどさ」  また、白い吐息が。 「だって、俺の保護者は、文だろ?」 「……」 「それ振りかざして思いっきりたんこぶになって、文にくっついてく」  僕はね。  僕は、十六歳年上なのも同性なのも、保護者なのも、イヤなことだった。それがなければ、そのほうがいいと思っていた。それを郁と我慢したあの一年でそれを飲み込んで、イヤ、ではないものにはしたんだよ?  けれど、郁は。 「郁は、その、いいの?」  郁はその「イヤ」なことを振りかざして自分の味方にしてしまう。凛としたしたたかさはりょうちゃんにそっくりだ。 「何が?」 「だ、だからっ、野間さんっ、その、郁のお父さんっ」 「……なんで?」  郁は学校近くのセキュリティ万全のワンルームも、学費も、それから春にあるヨーロッパ留学も全て断った。  自分の全ては僕のためにあると、言い切って背筋を伸ばしてしまった。郁のお父さんはそれを見て、郁そっくりな苦笑いを浮かべていた。 「学費は、後で俺が文に返す」 「い、いらないってば」 「一生かけて、ゆっくりチマチマ返させて? 超長期ローン」  そしたら、保護者名義とローン、二つを振りかざして武器にできる、なんて笑ってる。 「野間さんのこと、そんなに怒ってない? その、きっと優しい人だと思うんだ。僕はとても真摯な人だって思ったし。その郁もりょうちゃんも色々苦労したけれど、それは、何かあったんだよ。だからあまり責めずにいてあげてくれたら、嬉しいなぁって。定期的に会ってあげたらとても喜ぶと思うし」 「すげぇ嫌い」 「え?」  そんなに? でも、そこまで嫌いって感じじゃなかったでしょう? 「なんで、そんなに文がかばうわけ?」 「はい?」 「何? なんか、あんの?」 「なっ、何もあるわけないでしょ! もう何を言って」 「だって、親子だし?」  クスッと笑った顔に胸が高鳴った。こんなに男の色気が混ざった笑い方してたっけ? こんな、ドキドキして仕方がないくらい? 「僕は、余所見なんてしない」 「……文?」 「野間さんに挨拶されてから、ずっと、隠してたんだよ?」 「……」 「ずっと」 「ありがと」  ドキドキして、たまらない。 「さっきの俺、カッコよかった?」  いつでも君はカッコいいよ。ほら、今だって。 「惚れた?」  さっきから郁が話す度、笑う度口元にふわりと広がる白い吐息はまるで綿飴みたいだ。 「……うん」  ほら、やっぱり綿飴。その証拠に君の唇が触れたら、甘い味がした。とても美味しい甘い味が嬉しくて。都会から電車を乗り継いで二時間、田舎に行く電車はそう何本も出てなくて、乗り継ぎのタイミングがちょうど悪かった僕らはまだまだ待っていないといけなさそう。だから、惚れたって答えながら僕も白い綿飴みたいな吐息を口移しであげたんだ。 「そんで、これは伝統的な和柄をちょっとアレンジしたんだ。うちの庭にある桜の紋と合わせてさ」 「……うん。すごく素敵」 「マジで?」  ――顔を上げて。 「やった! めちゃくちゃ嬉しい。あっ! そんでさ! ここのとこで色を」  ――今日、ずっと、文ちゃん、つまらなさそう。  太市君に言われてしまった。  ね、顔を上げればわかったのに。 「どう? 文」  小さな町工場。そう儲かるわけじゃない織物工場。田舎で、狭くて窮屈で。古いとこも、面倒なこともたくさんあって、最先端な街とは雲泥の差。  君のことを閉じ込めてしまっている。才能を落っことして、見失わせて、潰してしまうと思っていた。 「うん。とても良いと思う」  そんなことなかった。  僕は何も潰してない。零して落っことしてしまっていない。今、自分が考えた織物のデザインを語るこの郁を見れば。 「ねぇ、郁」 「?」 「織物、好き?」 「好きだよ」  僕は、僕でいい。  僕は、この僕のまま、郁を抱き締めよう。 「僕も好き」  郁が愛してくれているのは、都心から電車で二時間、小さな町工場を営んでいる三十五歳、ただそのままの僕だから。

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