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第83話 愛しいままごと

「じゃあ、文クンがママね……ボクはぁ、うーん、パパしる」 「うん。いいよ」  まだ、「する」が「しる」になってしまう、舌ったらずがすごく可愛い郁がプニプニと柔らかい手でテーブルの上に置いた見えないノートパソコンで仕事を始めた。 「カタカタ……うーん……カタカタ……あぁ、いしょがしい、さてさて……」  カタカタ、っていうのは、パソコンを打っている音の真似。さてさてのあと無言になったのは、画面、もちろん何もそこにはないのだけれど、彼には見えているんだろう液晶を指でタッチして、何か操作をしているから。今時の子は仕事っていうとパソコンになるんだね。そしてタッチパネルなんだね。 「貴方、今日のご飯は何がいいですか?」 「うーん、しょうだなぁ」  いっこうに夕飯のメニューを決めてくれない小さなパパにトマトのサラダはいかがです? って尋ねたら、途端にイヤそうな顔をした。 「ミートボールとチョコケーキ、それと葡萄のじぇりーと、林檎のじゅーしゅ」 「まぁ、お野菜がひとつもないですよ? 貴方」 「えー、それがいいよ、ママ」  なんだか我儘なパパさんだこと、ってたしなめると、ニコニコ笑っている。 「はい。パパ」  パパって呼ばれたことが嬉しかった? けれど、うちで郁のためにと買っておいたオママゴトセットの中にはチョコケーキはないみたい。林檎と葡萄なら丸ごとがあるけれど。そう伝えると仕方がないと夕飯リクエストの一つで、郁の大好きなチョコレートケーキは諦めてくれるらしい。あとは――。 「パパ、ミートボールはどうしましょうか」 「うーん。困ったねぇ」 「えぇ」  まだ二歳。難しい顔をして、困ったなぁって呟いたかと思ったら、何か良いことを思いついたようで表情を明るくした。ついさっきまで遊んでいた積み木の中を漁り始めた。ガラゴロガラゴロ、しばらくして、戻ってきた小さな手の中は円柱の形をした積み木が三つ。 「はい。ミートボール」 「なるほど」 「えへへへ。ご飯お手伝いしる」  そして、キッチンということになっている卓袱台のところへやって来て、隣で今度は包丁の小気味良い音を真似ながら何かを切ってくれている。  ミートボールを透明のフライパンで調理して、葡萄と林檎はそのままだけれど、中身はゼリーとジュースということにして。これで晩御飯は。 「あっ! ママ、ちょっと待っててね」 「? うん」  郁が今度向かったのは軒先だった。 「郁?」 「ちょっと待ってね……ママ」  何をしてるんだろう。  今日はとても穏やかで温かい。だから、庭に面している軒先の窓を全て開けていた。一階のここからでは満開の桜は見えないけれど、窓の向こう、雨のように降り注ぐ桜の花びらだけが見える。  それが風に乗って、部屋の中、軒先に不時着していた。  薄いピンク色をした一片ずつを、まあるい、柔らかい指先がちょこんと摘む。摘んで、拾って、風に飛ばされないようにそっとそっと、もう片方の手の中へ。  まあるい指先。  まあるい背中。  まあるい。 「はい。これ、ミートボールが美味しくなるの」  ヒラヒラと薄いピンク色は、円柱の淡い木目が優しい積み木の上に。 「はい。これでかんしぇい。はい。ママも」  まあるいほっぺたがほわりと赤く色付いて。  今はとっても可愛いけれど、この可愛い郁がいつか大きくなったら。誰かと、本当に、こういうふうに……。 「ママ?」 「! ぁ、ごめんっ」  まあるい、僕の可愛いこの子がいつか、誰かと。  ――いただきます。  ――いただきましゅ。 「……ん」  目を開けると、郁がいた。  もう丸くない頬、指先、それにずいぶん低くなった声がカッコいい十八歳の、郁。 「……」  おままごと、してた。あれは郁が二歳? 三歳? そのくらいの頃だから、ボクはもう高校生とかだ。  すごい年の差、だよね。子どもの頃の一つ二つの歳の違いってすごいものがある。僕がママで郁がパパ。急に思い出した。  そうだ。  そう、僕は思ったんだ。羨ましいと。 「……ん、文?」  この可愛い子が、ずっとずっとこの先、カッコよくなって、誰かとおままごとじゃなくて、本当の家族を作るのかなって。恋人がいて、恋心に頬を色付かせながら、キッチンで、並んでご飯を作るのかなって。 「何? 寝れねぇの?」  眠そう。というかほとんど寝たまま、僕のほうへと手を伸ばし、そのまま抱き寄せた。僕は腕の中に閉じ込められ、狭苦しいその腕の中で、郁の寝息を耳にする。 「郁? あの……腕、痛くなるよ? 下敷きになっちゃってる」 「別にいい……痛くねぇし……それに」  この前、起きた時いなかったって怒られた。僕が朝方、まだ寝ててって郁のことをなだめておいて、自分は布団を出た時のこと。 「これなら……出られ……ねぇ」 「……」  だから今度は出ていかないようにと閉じ込めたらしい。  また、寝ちゃった、かな。寝息が穏やかで、狭いけれど、窮屈になるほどの力強く抱きかかえられてるわけじゃない。  うん。狭いけれど、でも、とても心地良い。ずっと、ここにいたくなる。 「……」  もしも、あの時、軒先で花びらを摘む郁を見つめていた僕と話しができるのなら、すごく教えてあげたことがあるんだ。 「……おやすみなさい」  大きく、カッコよくなった郁の隣にいるのは、もっとずっと大人になった君だよ。けれど、その時にはね。もう君が思っているほど幼くないし、小さくもなくて、とてもとってもカッコいい男の人になっているんだ。今はまだとてつもなく大きく離れているように感じるだろうけれど。その差は少しずつ、ゆっくり、縮まっていく。気がつけば、背も、手の大きさも全部抜かされてしまうくらい。ゆっくり溶けてなくなっていく差なんだ。 「……おやすみ、文」  ねぇ、十六も歳の離れた、きっと、幼く小さな君から見たらずっとずっと大人に見えただろう僕は、出会ってからの長い年月の中で、その瞳の中でどう変化したんだろう。それは僕にはわかりようもないことだけれど。  僕は、君の瞳にどう映っていたんだろう。  できることなら、少しでも、どうか――。 「あ、こら、郁、トマトをちゃんと自分のお皿にも乗っけて」 「じゃあ、文もカリフラワー乗っけろよ」 「……う」 「ほら」  なんちゃって、本当はもうそんなに苦手じゃないんだ。郁の作ってくれるのサラダのは、実は好んで食べられちゃうくらいに好きになってたりする。  けれど、ごめんね。ミニトマトはそのまま、だから。食べるのにそう苦そうな顔しないでよ。苦くないでしょう? 「ミニトマト、もう一ついる?」 「……っつうか、今朝、夢見た」  あ、ちょっと無視された。 「へぇ、どんな?」 「仕事して、飯作って食う夢」 「ずいぶんと地味な夢だね」 「あぁ、けど……」  けれど? 「最高に優しくて綺麗で、心地良い夢だったよ」  言いながら、得意気な顔をした郁が赤い一粒を長く骨っぽい指で摘むと、口の中へと放り込んだ。  ほら、どうだ。食べてやったぞ。  そう言いたげに、笑って、そして、僕にカリフラワーを一つ差し出した。 「心地良くて、幸せな気分だった」  僕は、その一つを「あーん」ってしながら、ママゴトみたいにもぐもぐ食べた。

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