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ほのぼの夏風邪編 1 小さな背中
梅雨が明けた途端、蝉がすごいなぁって、お昼のお弁当を広げながら、ぼんやりと事務所の外へと視線を向けた。
眩しいなぁ、暑そうだなぁ。外回りの郁はちゃんとこまめに水分補給してるかなぁ、なんて、小さな小さな織物屋だけれど、一応は経営者なのに、そんなことを考えていた。
そろそろお昼だ。ちゃんと昼ご飯の時間取ってるかな。外周りだと食べる時間もないし、この時期じゃお弁当を持ち歩くのはちょっと怖いからって、適当に済ませるって言ってたけど。
本当に適当に済ませてしまいそうだから。
――いいんだよ。腹が膨れれば。
なんて言いそうだし。
僕のはこんなにすごいのを作ってくれるけど、でも、自分はそれこそ菓子パンを口に放り込んでお仕舞いにしてしまうとかさ。
――文こそ、ちゃんと食えよ。
なぁんて……ちょっとだけ低い声で、ちょっとだけぶっきらぼうな口調で言いそう。うん。ものすごくそんな感じがする。
こーんな顔して。
「あ、あの、社長」
「あ、はいっ!」
郁の真似をして、こっそりと仏頂面をしていたところで、パートさんの一人に名前を呼ばれて慌てて顔を上げた。
でも、顔を仏頂面にしていたことを忘れてしまった。きっとものすごく怖い顔をしていたんじゃないだろうか。声をかけたパートさんがびっくりした顔をしていたから。だから怒っていたわけじゃないと慌てて上機嫌な感じに微笑んで見せた。
「あ、あの……すみません、子どもが熱を出しちゃったみたいで」
「え? そうなの?」
「はい、朝はなんともなかったんですけど」
「そうなんだ。それは心配だよね。早退してください。残りの仕事は僕がしておきますから」
彼女は頭を二度下げて、慌てて鞄だけを掴んで会社をあとにした。
「風邪ですかねぇ……」
もう一人のパートさんは娘さんがもう大きいから。郁とほぼ同じくらいじゃなかったっけ? だから、この学童とかに呼び出されて慌てて帰る相棒のパートさんを懐かしそうに見送っていた。
「夏風邪は、大変よねぇ」
「……えぇ」
「本人も大変だけど、滅多にかからないから、看病するほうも困っちゃうのよねぇ」
「えぇ」
僕も、懐かしいや。
「そうですよね」
夏風邪、困ったっけね。
あの時は、ホント。
郁がうちに着てから一年が経った頃だった。よく覚えてる、梅雨入りしても、ずぅぅっと雨が降らなくて、これは梅雨が終わってしまったのかな、それとももうすでに明けたのかな、って、毎日青空を見上げて思ってたんだ。ほら、インクの関係で、湿気とか温度とか気になるから。
それなのに、梅雨が明けたとテレビで発表されたその日だった。
ものすごい夕立で、郁がびしょ濡れになって帰って来たんだ。
「郁っ!」
「……ただいま」
びしょ濡れになった郁がうちへと入ろうとするところが、ちょうど、事務所の窓から見えた。
「傘、持っていってあげたのにっ」
「……いや、帰り道の途中で降って来ちゃったから」
ぶっきらぼうなのは昔からだった。
中学一年、その前の年にうちへ来た郁は新しい生活に慣れることなく、次の「中学生」っていう新生活を過ごさないといけなくて、疲れもたまってたんだと思う。そこに来てその夕立だったから。
「けほ、こほっ」
その夕立の翌日、さぁ本格的な夏の到来だとばかりに蝉が一斉に大合唱を始めた朝、小さな咳の音が、古びたうちの中、郁の部屋から聞こえてきた。
ノックをして、そっと部屋に入って名前を呼ぶと、返事をしようとしたのかもしれない、郁がコホコホと我慢しきれずむせるように咳込んで、まだ小さく、幼さの残る背中を丸めた。
「郁?」
「へ……き」
「いいから」
そっと額に触れるとびっくりするほど熱が高かった。
「ごめ……文、さ……」
「いいから」
風邪を引かせてしまったんだ。
学校に電話をして、あとは水分と、食事は消化のいいものがいいかな。それから薬と。熱も測らなくちゃ。あまりにも高い熱だったらお医者さんのところにも行かないと。
それで、あとは――。
「へ……き……寝てれば、治るから」
「うん、寝てて、それで、何か欲しいものがあったら、少し頑張って僕のこと呼んで? 下で郁のご飯作ってくるから」
「……」
手、僕の手は冷たい? 本当は郁の額が熱すぎるだけなんだけど、でも、その体温の差ですら心地良いのか、頬に、額に、喉の辺りに、その郁よりも幾分冷たい手で触れると、柔らかな寝息が聞こえた。
そっと下へ降りて、食事を作ったんだ。夏の風邪で暑くてしょうがないだろう。汗をいっぱいかくだろうから、水分取らないと。それから塩分に……。身体は冷やしたのほうがいいのかな。冬の一般的な風邪なら温めるほうがいいって聞いたことがあるんだけど。
「えっと、まずはご飯」
ぽつりと呟いて、そして急いで台所へと向かった。
急いでネットで調べて、夏の風邪は高熱と腹痛、下痢、それから喉の痛みもあるんだって。それなら消化の良い食事を――。
「えっと……」
そんなふうに一日、大慌てだったっけ。
だって、まだ中学一年生の郁は心細いでしょう? 急にこんな田舎に来て、周りは山と川て畑。それまでいた都会の学校とは環境も人も違う。全くの別世界に飛ばされたようなものだろうから。そこに来て、風邪なんて引いてしまったら。
寂しいだろうなぁって。
「…………ン」
だから、そばにいてあげないとって。
「郁……大丈夫だよ」
背中を丸めて寝てた郁が身じろいで、目を開けた。声をかけて、背中を撫でて、頭を、風邪で少し湿気た髪を撫でてあげると。
「文……さん……」
壁のほうを向いていた郁がぐるりと身体の向きをこちら側へと寝返りを打つ。
「うん。ここにいるから」
「……」
「ずっと一緒にいるからね?」
大丈夫だよ? そう、頭がもしも痛くても響いてしまわないような小さな声でそう告げると、小さく頷いた。
「うん」
小さく頷いて、身体の向きをこっちに変えて、僕の手を、きゅっと掴んだ。それが嬉しかった。庇護欲みたいなものなのかな。でもそれだけじゃなくて、なんというかさ。
あの時、くらりと眩暈がしたんだ。
郁っていう、大切なものが必死に掴んでくれた指先に、あれはなんというか、じんわりと胸のところが熱くなったのを感じた。
なんというか、懐いてくれたさ、ワンコみたいな。
「……懐かしいなぁ」
思い出した。小さな細いあの背中が可愛くて愛しくてたまらなかったっけ。お昼ご飯を食べながら、つい、ぽろりと言葉が零れた。
そんなことを思い出していたら、急に恋しくなってしまった。行儀が悪いけれど、お弁当を食べながら、ポチポチってスマホでメッセージを作っていく。
――ちゃんとご飯食べてる?
返事はすぐに返ってきた。普段、スマホなんてうちの中でほとんどほったらかしなのにね。
――食べてるよ。っていうか、文こそ、ちゃんと食べてる?
もちろんだよ。
――文、細いんだからもっと食え。
えー、それはやだよ。細いままがいい。じゃないと、さ。
もうあの頃の華奢さも、繊細さも、儚さもなくなった背中、少し口も達者になった郁。僕の「恋人」になった郁の懐かしい子犬時代を思い出しながら、ぱくりと甘い卵焼きを一口でいただいて。
――抱き心地変っちゃうからやだよー。
そう返したら、少しだけ、画面の向こうで郁が狼狽てる気がした。
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