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ほのぼの夏風邪編 2 大きな手

 あの頃はどこか儚げで可愛かったなぁ、なんて懐かしんだりしたからバチがあったったのかな。  神様が「コレ!」って怒ったのかもしれない。 「……うー」  頭がくらくらする。それから、ちょっと身体がミシミシと痛い。  これは、熱けっこう高いかなぁ。夏風邪かなぁ。あぁ、もうバカだなぁ。  風邪なんて滅多に引かないのに、その風邪の中でも珍しい夏風邪を引くなんてさ。  織物業を営んでるから、寒さには滅法強いんだ。身体が冷え切るのだって慣れっこなのに。暑さは、好きじゃないけど、それでもこの時期に風邪なんて引いたことなかった。細いけど、それなりに頑丈のはずなんだけどなぁ。 「……はぁ」  起き上がると、頭が首のところから落っこちちゃいそうなくらい重くて、そして痛い。身じろぐのも、ちょっとしかめっ面になってしまうほどに痛くてしかたない。 「っ」  えーっと、今日は、そうだ。仕事、パートさんがきっと看病で休むだろうから、その伝票処理だってあるし、それに成田さんも来るはず。熱で染料の質が変化しやすいから注文が小ロットごとになってて、ちょくちょく来てもらわないと。それから、それから――。 「文?」  隣の布団で寝ていた郁が違和感を感じたのか、スッと起き上がってしまう。 「おはよ、郁」 「……はよ」 「昨日のお昼のお礼に、今日の朝ごはんは僕が作るねー」 「あぁ、うん」  危ない。危ない。  郁が僕に触れたらきっとすぐにわかってしまう。パートさん一人ぼっちで仕事任せてってわけにいかないでしょ。  郁は昨日の外回りで営業好感触だったって。その好感触で反応してくれた企業と今日は朝一番に打ち合わせだって嬉しそうに話してたし。大丈夫。今日一日事務処理しながら、無理しないでいれば治っちゃうでしょ。たぶん。 「……おっと」  寝起きで足元がふらつくのもあって、階段で転びそうになってしまった。木造の階段が慌てたように少し軋んだ。 「さて……と」  頑張らないと。本当は自分のほっぺたをぺちんと引っぱたいて気合を入れたいところだったけれど。さすがにそれは熱に重くだるい頭には堪えるだろうから控えて、そっとまた転ばないように階段をしっかり下りて、朝ごはんの支度へと向かった。  職場はうちのすぐ隣。同じ敷地の中だから、朝食を終えて、身支度を整えたら、そのまま一緒に出勤だけれど、郁が外回りをする時は別だ。「行って来ます」って挨拶をして、玄関先でキスをする。新婚さんみたいに朝、キスで送り出す。  なんだけれど、今日は、それをしなかった。  キスをしたら熱があるのがバレてしまうから。  パートさんのお子さんが熱出しちゃって看病があるから、今日は休みだろう。その分、早めに行って仕事を片付けておかないとって、誤魔化した。 「……はぁ」  そのせいかな。あまり調子が出ないんだ。  キス、してないからかなぁ。 「大丈夫っすか?」 「! ぁ、ごめんなさい! 成田さんっ」 「いや、いいんすけど……夏バテっすか?」 「あー、うん」  暑いっすもんねぇ。そう言って笑って、成田さんが一斗缶をひょいと掲げて棚へと運んでくれた。いつもはしっかりしなくちゃて、僕は自分で運ぶようにしたくて、遠慮するなと手伝ってくれようとする成田さんと缶の取り合いみたいになるんだけど、今日は任せてしまった。 「これで全部っすかね」 「あ、はい……」 「あ、そうだ。この青色、すっごい綺麗なんで」 「へ?」 「サンプルっす」  手の中には小さなプラスチックの密封容器に入ったインクだ。まだ素材に合わせたわけでもない原液のままだから色が濃くて、黒に限りなく近い青色をしているけれど。夏にぴったりの爽やかな青色だから,是非、ご検討を、って挨拶をされた。 「あ、ありがとうございます」 「いえいえぇ、いやぁ、最近、たくさんインク注文してもらってるんで。お得意さんのとこですから。あ、今日は郁君は?」 「あー、えっと、外回りに」  えらいっすねぇって、爽やかに笑うと、僕をエスコートするように倉庫の扉を開けてくれる。中の倉庫はインクのことがあって、温度も湿度もしっかり管理されている。冬は少し暖かく感じて、夏はひんやりと涼しい。  外は、一歩出ただけで「うわぁ」とぼやきたくなるような暑さだ。  郁もこんな感じで外回りしてるんだろう。 「そんじゃぁ、俺はここで」 「あ、ありがとうございます」 「こちらこそ、いつもありがとうございます」  夏の太陽みたいに元気な成田さんがその長い腕をブンブン振って、いつもどおり店の手前に止めてある軽トラに乗り込んだ。  成田さんは店をもう完全に任されていて、外回り営業を兼ねて、あっちこっちと忙しそうにちょっとだけガタが来てそうな軽トラで走り回っている。 「……さてと」  僕も、頑張らないと。  無理をしないでいれば段々と良くなるだろうって思ってたんだけど。 「ふぅ……」  あんまりそうもいかなくて。伝票処理をまだ体調がマシな午前中に済ませておいて正解だった。中庭で、今、成田さんから受け取った請求書の小さな数字を見ると、燦燦と降り注ぐ日差しもあってクラクラと眩暈がしてしまう。  見上げると桜の葉が隙間から差し込んだ夏の日差しに目が痛む。  良くなるどころか。これじゃ。 「…………」  くらりとした。熱でミシミシと軋んで痛くてたまらない足が関節からガクンと崩れて、倒れてしまうかもって。 「……」  思ったんだけど。春先には桜の花びらが一面に降り注いで、桜色の絨毯が敷き詰められたようになる地面に、ひらりひらりと伝票だけが舞い落ちた。 「……っと、あっぶな」  僕も倒れ込んでしまうだろうと思ったのに。 「ったく、無理すんなよ」 「……ぇ、な、で」 「なんでじゃねぇよ」  僕は倒れることなく、郁が掴んでくれた。  大きな手で腕を掴んで、ムスッとしたへの字口に怒った顔で。 「あっつ……すげぇ熱あんじゃんか」  優しく僕をおんぶしてくれた。

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