891 / 1502

第891話

「今冷房つけたから冷えるまでもう少し待っててな」 「すみません。 ありがとうございます」 後部座席に座る三条に風がいくよう調節し漸く深く腰掛けた。 前髪がそよそよと揺れるのが気持ち良い。 更に、アルコールジェルで手を消毒すれば気化熱のお陰でスーッとする。 「正宗さん、いただきます」 「どうぞ。 ほんと律儀だな」 カシュッと小気味良い音をたて開封したそれを煽ると爽やかな甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。 檸檬の旬は夏ではないのに、なぜこの味を夏の味だと思うのだろうか。 それにしても冷たくて美味しい。 美味しいですね、と言おうと開いた口は目の前の愛おしそうな眼差しに閉じてしまう。 自分に向けられる視線に気が付き長岡は微笑んだ。 「ほんとにありがとな」 長岡が守ってくれている事も、気に掛けてくれている事も知っている。 ありがとうと言うのは自分の方だ。 前から伸びてきた大きな手が指に触れ絡まる。 たったそれだけの触れ合いだけど、繋がった箇所から嬉しい気持ちや体温が伝わってくる。 「誕生日だって顔見れて祝ってくれて、十分だったのに。 こんな良いもんまで貰って」 「俺も飲みたいですから」 「期待大だな。 上手く淹れられように頑張るよ」 指の細さを確かめるように動く大きな手。 三条はふにゃっと笑い指を握り返した。 「遥登は、コーヒーはどの豆が好きだ?」 「正直、豆とかよく分かりません。 インスタントも美味しいですし、コーヒーショップのも美味しいです」 においや味が違うな、位なら分かる。 すっきり飲みたいなら水出しのアイス、牛乳を入れるならインスタントを濃い目に。 この程度の好みしかない。 だって、インスタントも挽きたての豆も美味しいんだ。 どちらもまた違った魅力があるんだから選ぶのは難しい。 「遥登らしいな。 でも、美味いもんは美味いよな。 分かるよ」 そう言ってくれた長岡の顔はビデオ通話をしている時よりずっと安心するものだ。

ともだちにシェアしよう!