3 / 17

第3話

緑。 視界に入った緑が窓越しでないことに気づき、七音は開きかけていた瞼を大きく広げた。 「な…………」 なんで。そう声にしようとしたところで、自分の身に起きていることに思い当たり、七音は横になったまま周囲にぐるりと視線を巡らせる。 温室のように、たくさんの植物が部屋に茂っていた。だが部屋は温室とは真逆で身震いするほど温度が下げられている。白い石が張られた床。暖炉。金色の装飾に縁どられた絵画。ここは間違いなく七音のいた寮ではない。 のそりと体を起こす。七音がいるのは白いシーツが張られた大きなベッドだった。よくよく見れば調度品のどれもが大きい。まるで小人になってしまったような心地になる。特に扉は七音の二倍近くありそうだった。 何故これほどまでに扉が大きいのだろう。そう考えていると扉が開き、そこから誰かが入ってきた。 「起きたのか」 「っ、ひぃ──!」 息を呑んだせいでおかしな声が出た。だがそれも無理はない。入ってきたのは七音より一回り大きな狼だったからだ。しかも人間と同じように後ろ脚で立っており、人間と同じ言葉を話した。 「な、な……な……」 「七音。名前は聞いている。俺はヒュドゥカだ」 ヒュドゥカ。はっきりと名乗った男はやはり、どう見ても狼の顔をしている。毛並みも顔の形も七音の知る狼そのものだが、体のつくりは少し違うらしい。ゆったりとした白い衣装を纏っているが、後ろ足で立っているにしては脚が長い。 「ヒュドゥカさま……」 「ヒュドゥカでいい。体はどうだ? 腹が減っているだろう。何が食べたい?」 「あ……」 言われて意識的に体を動かしてみる。そういえば寮を出る前に起こった発情で燃えるようだった体はすっかりと元通りになっている。合間に見た夢のように体が重だるいということもなかった。 「平気……です」 やはりそうなのだろうか。七音のことを知っていて、寮ではない場所で迎えてくれている相手──それは番のアルファとしか考えられない。 あの建物にいる間に学んだ通りであればそうだ。だが番のアルファが人間ではない──言うならば獣と人の双方の特徴を持った獣人──だとは聞いていなかった。 七音の知る世界には獣人など相談しなかった。ここはいったいどこなのか。本当に自分の番が獣人なのか。疑問は次々と湧き出るのに、聞いていい子とか分からずに七音は口ごもる。 「適当に用意していいか? 食べられないものは?」 「ない……です」 七音の戸惑いに気づいているのかいないのか、ヒュドゥカは話を進めていく。だが七音に気遣いの言葉をくれるのは嬉しい。 想像していた番とはあまりにもかけ離れているが、これが運命で、逃れられないことならささやかな幸せを拾い集めて暮らしていくほうがずっといい。 「ありがとうございます」 かすれ気味の声を気にしつつ、七音はベッドから降りようと体の向きを変える。いつの間にかその身はヒュドゥカに似た白い装束に包まれている。寝間着なのか日常着なのか分からないまま立ち上がろうとしたところでかくんと前のめりに倒れた。 「大丈夫か!」 すぐさま駆け寄ってくれたヒュドゥカに抱え起こされる。ふわりと肌に当たる体毛の感触は、見た目よりずっとやわらかくて気持ちがいい。 「七音?」 「ごめんなさい。失敗してしまいました」 自分ではいつも通り立ち上がったつもりで、足に全く力が入らなかったのだ。思いもよらない失態を恥じていると、ヒュドゥカが七音の頭をふわりと撫でた。 「謝るのは俺のほうだ。ヒートしていたとはいえ、七音の華奢な身体を無茶に扱ってしまった」 「身体……え、え?」 「発情した七音を番にした」 「嘘……!」 あれは夢ではなかったのか。はっとして七音が首の後ろに手をやれば、夢の中で噛まれたあたりに絆創膏のようなものが張られている。 「化膿しないよう手当した。印が定着するまでそうしていたほうがいいらしい」 アルファはオメガを番にするとき、首筋に噛み痕を残す。それが番の証となり、オメガは首筋を噛んだアルファをただひとりの番として認識する。心ではいくらでも違う相手を思ったとしても、体は番以外を拒絶するようになるのだ。 つまり、この先七音は発情するたびにヒュドゥカに抱かれる以外ないということになる。 「あの……」 「うん?」 ──僕で良かったですか? オメガの七音には選択肢がないが、ヒュドゥカたちアルファはどうなのだろう。もし七音のように誰かに決められた相手として七音を迎えたのだとしたら、七音と番ったことをどう捉えているのか。 「…………なんでもないです」 知りたい気持ちは大きいが、聞くには勇気が足りなかった。もしヒュドゥカが「仕方ない。選べないのだから七音で我慢する」なんて答えたら、そういうものかと頭で分かっても、落ち込みは深いはずだ。 「ほら、行くぞ」 「わっ」 ふわりと身体が宙に浮く。抱え起こされた格好のまま、ヒュドゥカが七音を抱きあげたせいだ。 ふわふわの毛並みに包まれ、横抱きで運ばれていると、まるで雲の上に乗って漂っているような感じがする。 ──これも夢なのかな。だって狼が言葉を話すとか、どう考えてもファンタジーだ。 夢ならこのまま夢の中にいるのもいいかもしれない。七音はそう思っていた。

ともだちにシェアしよう!