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第5話
「初めてだな」
「え……」
「屋敷の外を見るのは初めてだろう?」
「そうです」
ゆっくりと走り出した馬車は屋敷から通りに出る。夕暮れまで半時ほどだろうか。オレンジ色に染まり始めた街並みに七音は圧倒された。
重厚な石造りの建物が美しい街並みを造っている。それぞれがヒュドゥカの屋敷のように大きく、立派だった。段々と闇が広がるのを追いかけるように街灯が灯り、道を行く獣人たちを浮かび上がらせる。その殆どは七音が屋敷内で着ているような簡素な服装をしていた。どれほど目を凝らしてみても七音と同じ人間は見当たらない。
遠いところに来てしまったのだと、今さらながら思う。
「帰りたいか?」
「え……」
問われるまで七音は帰りたいと思ってもいなかったことに気づいた。確かに日々驚くことばかりだ。十日経って少しは慣れてきたが、食事に満足していると言い難いし、この先どうなっていくのかという不安もある。
だがヒュドゥカに問われて、特に帰りたいとも思っていなかったと分かった。
「帰る場所なんかないですし」
「そうか」
七音の返事をヒュドゥカがどう捉えたのか。今回は表情が読めなかった。
──そう。帰る場所なんかない。
今さら寮に戻れるはずもない。かといって生まれ育った家にも帰れないだろう。オメガがベータの社会で生きていくことはできないのだから。
訪れる発情期はアルファと肌を重ねることでしか鎮められないし、ヒュドゥカの番となった七音は、ヒュドゥカに抱いて貰わなければ発情の熱を鎮められない。
馬車は闘技場に停まる。御者によって開かれた扉からヒュドゥカが先に降り、七音に手を差し伸べた。
「あっ」
衣装を踏んで体勢を崩した七音を、ヒュドゥカは難なく受け止めてくれ、ふわりと地面に下ろされた。
「気をつけてくれ」
「あ、はい」
迷惑を掛けるなという意味だろう。申し訳なさと恥ずかしさで身を竦めていると、周囲のざわめきが耳に届く。
『オメガだ……人間のオメガだ』
『雄だな。みすぼらしい』
『貴族は物好きだ』
誰が言っているかも判別できない。だが囁きはひとりからではない。あちらこちらで言い交されているうちのいくつかが聞き取れた。
人間であることも、オメガであることも嫌悪の対象なのだ。姿が全く違うのだから、人間であることを嫌われても仕方がない。それよりも……。
──やっぱりここでもオメガは社会から弾かれる存在なんだ……。
そのことが深く七音の胸を抉った。国が変わったから反応が変わると思ったわけではないが、屋敷でヒュドゥカやアルから大切に扱われていたせいで、忘れていたのだ。
「ごめんなさい……俺、帰ったほうがいいですね」
ヒュドゥカの格好や特別な馬車、屋敷の大きさなどを考えれば、この国でも特別な地位を持つ獣人なのだろう。そんなヒュドゥカを七音のせいで騒動に巻き込むわけにはいかない。
──オメガは閉ざされた空間でひっそりと生きていくのがいいんだ……。
「七音」
「えっ、わ……っ!」
沈み込んでいた七音を、ヒュドゥカは唐突に抱きあげた。背の高いヒュドゥカの肩に腰を下ろすような高さに持ち上げられると、かなり視線が高くなる。すると七音とヒュドゥカを囲む人々が何重にも輪を作っていたのがよく見えた。
ヒュドゥカの取った行動に、獣人たちは驚きを露わにしている。
「七音、皆の顔をよく見てみろ」
「え……?」
「皆がおまえのことを睨みつけているか?」
そう言われて獣人たちの表情に目を配る。驚きがおさまると、嫌悪を露わに睨む者、好奇心を見せる者、笑顔を見せる者、興味を失ってその場を去る者が見える。
「攻撃的な者の声は大きく聞こえるが、それが全てではない。聞こえる声だけに惑わされるな。目を開いて世界を見ろ」
「世界を……」
閉じこもって生きようと考えた七音に対し、ヒュドゥカは外に目を向けろと言う。オメガがオメガというだけで蔑まれる存在だと知りつつも、ヒュドゥカ自身は七音のことを恥じたりしていないのだ。
──どうしよう、嬉しい。
ヒュドゥカに言われたからといって、急に変わることはできない。だが、番となった相手が七音のことを恥じない、蔑まないと知れただけでも嬉しかった。
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