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第6話

  さて、灰白の狼(カルマ)の方は暫くの間放心状態でぼんやりとしていた。彼の脳がなかなか今の現状を受け入れようとしなかったのだろう。 頭がちゃんと理解すると次第に憤怒(ふんど)と羞恥がふつふつと沸き上がってきて、灰白の狼(カルマ)は茵に打ちつけられた身体に力を入れた。勢いと若さと根性で起き上がろうとするのだが。 「───お前ぇ、ぐぇっ!」 茵からは起き上がれず、蛙が潰れたような無惨(むざん)な声をタダタダ上げるばかりだった。 灰白の狼(カルマ)の背中に童がどっかりと跨がり、ずっしりと座り込んでいるのだ。当然である。 だが、幾ら童が成人者であっても身体こそは大人のソレではない。小柄な体躯にコレほどの重みはないハズだ。 重力操作か、或いは、状態異常に似た童自身に起こった媒介変数の上昇で有るに違いない。魔法でもそういう類いのモノがあるのだ。呪にだってそういうのがあっても、可笑しくはないだろう。 朦々(もうもう)とする灰白の狼(カルマ)は、奥歯を噛み締めて歯軋りをする。 ま、今の今まですべての主導権は彼の手中にあったのだ。その悔しさは尋常ではないだろう。 「こらこら、そう怒りなさんなって。お前さんの悪いようにはせんから」 飄飄踉踉(ひょうひょうろうろう)たる童はケラケラと藁って、またもや灰白の狼(カルマ)の額をぺしぺしと叩く。 痛くはないが、馬鹿にされた感は十分にあって腹立たしさが半端ではない。 じっとりとした訝る視線を向ければ、しれっとした顔で童は灰白の狼(カルマ)の身体に掛かった負荷をさっと増した。 「なっ! お前……っ!」 身体が茵の限界まで沈む。 床が一枚板でなければ底があっさりと抜けていただろう。 無茶をすると睨みを利かせても這いつくばった姿勢では、威嚇にも脅しにもならない。 「精進(しょうじん)じゃよ、しょうじん(・・・・・)。ま、後、三段階は()せれるんじゃが、ちと試してみる気はあるかえ?」 にまにまとしたいけ好かん笑みをみせながら、童は勝ち誇った顔をする。 形勢が一変したことを物語っているようで、腹立たしさが倍増する。 が。 「く〜〜っ!」 灰白の狼(カルマ)は押し黙る。この童ならやり兼ねんことだ。 悪いようにはせんといいつつも、扱いは存外酷いモノであった。 そう、コレもう黙っておれと釘をさされたのも同然のこと。 ココは大人しく再起を図ることに専念するのが、身の為。 一方、童はそのまま一際蒼白く光っている呪符の方に視線だけを向けた。 「で、青龍(せいりゅう)朱雀(すざく)よ。あの馬鹿(・・)は今、何をしておる?」 その呪符がすっと宙に舞い上がり、言葉を発した。ソレが喋るということはないから、恐らく式札(しきふだ)なのだろう。 『ひとの世で御座いまする。ヒョニという黒灰の狼と共に()られまする』 「ああ、成るほど。遅刻した上、同種と道草を食っているというワケか………」 まったく、無能だとは思っていたがコレほどまでに酷かったとはと、小さな肩をコキュコキュと鳴らし、呆れた溜息を漏らす。 だが、ソレは想定内のことらしく落ち着いた態度で、何もない空宙(くうちゅう)から煙管(きせる)を取り出した。 童の使う呪は魔法とは異なるから、魔法の空間収納ではなくその(たぐ)いのモノなのだろう。 童は思案する素振りをみせながら、煙管の雁首辺りをもう片方の手の平に軽く打ちつけた。 「んん〜、勾陳(こうちん)、悪いんじゃが、青龍と朱雀、そして、あの馬鹿(・・)をココに連れてきてくれんかえ?」 反応はないが、部屋の片隅で隠形(おんぎょう)していたのだろう。その方向に童が視線を向けると、溜まっていた香の煙が大いに揺らめいた。 童が再び式札に視線を向け直すと、その右脇の空宙から煙管箱が現れる。ゴソゴソと煙管箱を漁り、葉煙草(はたばこ)を取りだすと丸く丸め火皿に詰め込む。 カチカチと火打石(ひうちいし)を軽快に打ち鳴らし、打ちつけ合わせてでた花火で葉煙草に火を点けた。 その仕草はまさに玄人。ゆっくりと汁を(すす)るように口腔(こうくう)(けむり)を楽しむ姿も、実に様になっていた。 ひ弱な体躯だが、彼がソレを操るとなるとそうとはまったくみえないのが、不思議なところである。 暫し静寂が流れ、角張った空気がうっすらと和らぐ。 長くも短くもない虚無が続き、よい頃合いを狙った具合に童が言葉を放つ。 「青龍、朱雀、まぁそういうことじゃから、勾陳が向かうまで、そっちのことは粗方片づけておいてくれんかのう?」 間髪入れずに、そういうことってどういうことだ!と聞き返したくなるが、青龍も朱雀も了見したような涼しい様子でこう応じる。 『御意に御座いまする』 ()の無茶振りを軽く受け入れられる寛容さを持っている従者らのようで、実に天晴である。 そして、宙に浮いていた式札は光りを失うと、そのままヒラヒラと床に舞い落ちた。 途端、倒れていた几帳と屏風が不自然な動きで起き上がるとすっと元あった位置に戻っていく。 同時にカタカタと周囲に散ら張っていた様ざまなモノまでがどんどん元の位置に戻っていき、呪符や式札までもが綺麗に揃えられて文台の上に置かれた。 「おお、悪いのう。玄武(げんぶ)に、白虎(びゃっこ)よ。後、湯浴みの準備も頼んでもよいかえ? ん? 着替え? あ~あ、コヤツのモノはひとの世にしかないか。お〜い、貴人(きじん)よ。悪いんじゃが、コヤツの着替えを頼んでよいかえ?」 風でカタカタと音を鳴らしている妻戸をみ、童は自分のことを指差した。 どうも、ひとの世まで取りに行ってこいというような童の言葉だが、妻戸が一際揺らいだ。ソレは肯定と取るべきで、彼の目尻がゆっくりと下がった。 口腔で(もてあそ)ぶように煙を鼻から吐き出す童は、灰白の狼(カルマ)が指球を鳴らして香に火を灯したように指をパチンと鳴らした。すると、閉まっていた妻戸が左右対称にバッと全開した。 「六合(りくごう)太陰(たいいん)、ソコにいるんじゃろう? 悪いんじゃがこの部屋の掃除を頼みでもよいかえ? 特にな、この茵とソコにある唐櫃を念入りにじゃ」 灰白の狼(カルマ)には童の云わんとしていることが直ぐ理解できたが、面白いワケではないから眉根を潜ませる。 「おいこら、あからさまに厭な顔をするでない。お前さんの性癖をコヤツに求めても、引かれるだけじゃぞ?」 童は彼の性癖を知っているかのように口を開き、しみじみと頷く。 そして、煙管を持っていない手の方でこれみよがしに、実にコレで三度の目になる額へのぺしぺしが舞い降りた。何かある毎に額を叩いてくるのは、もう癖なのだろう。 お仕置きの類いなら、軽罰に近い。 地味な痛みを堪えながら、灰白の狼(カルマ)は不貞腐れた顔をみせた。 そう、外見と本質からして、怯えているあの姿をみて苛めない方が可笑しい。 アレは絶対に苛めてくれといっているようなモノだ。 「なぁ、お前さんよ。今、またよからぬことを考えておるじゃろう?」 心の声が漏れていたかのように心情を読み解かれ、今度は絶え間なくぺしぺしと額を容赦なく叩かれる。 当然。 「ぃたいいたいいたいって。悪かった悪かった悪かった。この俺が悪かった」 もう過剰な意地悪はせん。優しくするからぺしぺしは勘弁してくれと灰白の狼(カルマ)は茵に這いつくばっている身体を捩らせることになる。 この年になって灰白の狼(カルマ)はココぞとばかりに、その変態思考を改めさせられることになったのであった。 その間、妻戸が全開だから冷たい風が諸に入ってくる。いくら室内と外気温が同じだといっても、骨身に凍みる冷たい送風の襲来は寒がりである灰白の狼(カルマ)には耐えられない。 「まったく口先だけは立派じゃのう」 呆れた口調で童は額を叩いていた手を緩めるが、身体の上に座り込んだ体制は解こうとしなかった。 そして、この体制でいつまでこうしておらぬといけないのだと、文句のひとつも出そうな頃合いに。 「ん? おおそうかそうか、流石、手際がよいのう。おい、お前さん、湯浴みの準備ができたそうじゃ」 優雅に鼻から煙を吐いていた童は煙管を器用に半回転させ、煙管盆があるにも拘わらず雁首を火鉢の淵に打ちつける。 火鉢の白く焼けた炭の上に火皿に詰まったままの葉煙草の灰が落ち、燻っていた炎が一気に増した。 バチバチとひとつ間違えれば大事になりそうな赤黒い火の粉が舞い上がり、半瞬を待たずにすっと何かが童に近づく気配がした。 「よいよい、他のモノもそのまま待機じゃ。悪いんじゃが、玄武、白虎、案内を頼むぞ。ほら、お前さんも湯浴みに参るぞ!」 そう云うと童は跳ね起きるように灰白の狼(カルマ)の上から立ち上がり、よたよたと起き上がろうとしている彼の首根っこを力強く掴んだ。 息の詰まる音がするのは彼がネコ(肉食)目イヌ科イヌ属で、決して、ネコ(肉食)目ネコ科ネコ属ではないからだ。明らかに体躯の造りが違う。 童はそんなことまったく気にした様子もなく、颯爽と煙管を元の空間にしまうと問答無用で首根っこを掴んだまま強引に彼の身体を引っ張る。 哀れ、高貴狼人。傲慢で強欲、残忍で非道であるが、餞別だけは送っておいてやろうと童の中で静かに潜んでいる本来の持ち主に合掌されているに違いない。 到底童の腕力とは思えないが、今の童は正真正銘の陰陽師だ。 身体上昇の呪くらいお茶の子さいさいだろう。 さて、童が歩く度に小便や色んなモノが混じった着崩れた直衣の裾は勿論、足袋なんかは床板にしっかりと染みつく。 濡れた足袋でコレ以上室内を歩けば掃除の邪魔になると判断した童は、器用に片手だけで脱ぐ。 だが、裏表になった足袋をそのままポイポイと床に投げ捨てた。 無造作さに脱ぎっぱなしにしてしまうのは、この童についている彼専用の雑色(ぞうしき)がいるからだろう。片づけはしなくてよい的な発想は、上流階級者の思考と同じである。 そうこうしているうちに、床の足袋は綺麗に消え去っていた。 式神の仕業だろう。 仕事の早い式神を携えると非常に助かると思う反面、彼らを労う気遣いも半端なモノではないだろうと灰白の狼(カルマ)は直ぐ様悟った。 そう、計らい有ってこその主従関係。手に余る従者を持つと、無惨に崩壊することを彼は知っているのだ。 そうこうしているうちに茵から数歩歩いた場所から童は気を取り直して歩きだすが、彼的にはぐしょぐしょのこの直衣も脱ぎたかった。だが、流石に全裸で歩くのは、本来の童(依代)の身分を考えれば気が引けること。 コレでも名の通った陰陽師の養子で、その弟子なのだ。 深紫の直衣が泣く。 諦めるかのうと即決で却下し、その童に憑依している彼は冷たい床板に身体を擦る体勢で灰白の狼(カルマ)を運ぶ。 引き摺っているともいうが、兎に角、冷たい床板は心身に堪える。 憑依している彼と同じことをした灰白の狼(カルマ)は、このとき初めてその身体の本来の持ち主である童には相当悪いことをしたと反省した。 ソレはそうと灰白の狼(カルマ)は自邸だからこの長い廊下をひたすら歩かなければ、湯浴みができる湯殿まで行けないことを知っている。 反復するが、身体の芯から凍りつくこの冷たさは尋常ではない。 「すまぬ。自分で歩くからこの手を離してくれないだろうか?」 掴まえられている首根っこを指差し、灰白の狼(カルマ)は申し訳程度の直談判(じかだんぱん)をする。 だが、身の(こお)る思いをしているのは憑依している()ではないから、あっさりと拒否された。 「おいおい、そう遠慮するなよ。道に迷ってはお前さんが困るじゃろう?」 「いやいや、結構だ」 自邸で迷うハズがなかろうに!と辺りを見渡したら、まったく知らない場所で目を丸くさせた。 妻戸をでて寝殿(しんでん)に向かう透渡殿(すきわたどの)をほんの少しだけ歩いただけだと思っていた灰白の狼(カルマ)は、瞬きをする。 「あの、ココは?」 「ん? 貴船の山頂。高嶺(たかね)とかいう不老不死に利く温泉街だ」 「はぁ?」 どこをどう歩いたら、ひとの世に繋がるというのだ。 そんな顔で彼をみたら、死の国だとカラカラと(わら)われた。 意味が解らない。意味が解らないがこの手を離されたら一瞬で闇に還りそうで、灰白の狼(カルマ)は素直に首根っこを掴んだままにして貰った。 「あ、ぃや、なんでもな………ぃ。掴んだままでいてくだされ」 「おいおい、どうしたんじゃ? そう他人行儀みたいに喋ることなどなかろうに?」 寛大というか偉ぶってないというか兎にも角にも、ひょうひょうとした態度がココにきても顕在な彼は、やはり掴みどころがなかった。 「まぁ、よいさのう。湯浴みじゃ、湯浴み!」 離さないでといった傍から、彼は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく灰白の狼(カルマ)の首根っこを離す。あ!と声を上げる間もなく、今度は右腕を強く引っ張られた。 「えっ?」 半瞬もなく、突如、目の前に現れた湯溜まりにざぶっんと衣を纏ったまま仰向けの状態で飛び込んだ。  

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