3 / 12
第3話
童は唐突 に腕を離され、尻餅をつく。
唐櫃の中に再び戻ると、漏らしてしまった小便がその中に入っていた衣を濡らしていた。
履いている足袋も、ぐちょぐちょになっていて気持ち悪い。
手にある呪符を更にキツく握り締めた。悔しいというよりも、利己に走った己の不甲斐 なさに涙がでそうだった。
そう、兄弟子でもあるあの 童は身を挺 し、この童のことを助けてくれたのだ。
しかも、今回が始めてではない。いつも気づけば、洋々と童のことを助けてくれていたのだ。
弟弟子というだけで。
ああ、兄者 といっても彼は童よりもひとつ歳が下だ。ひとの世は年功序列ではなく成果主義である。否、ただ単に参内、入門した順番が功と適っているだけなのだろうが。
ま、経験は何モノにも強しといったところなのだろう。
さて、童の失態といえばいつもの習性に甘えがでたとしかいいようがない。覆水不返 だ。
とはいえ、このだっだ広い敷地内の幾つもある建物の中の、格子で隔てた対屋のこの一郭を選ぶなどあり得ないこと。
況してや、赤褐の狼が指定してきたこの場所と被るなどあり得ない。
だが、灰白の狼はこの場所を適格に選んで訪れた。虚ろな目をした兄弟子 を引き摺って。
灰白の狼は抵抗しないことをいいことに兄弟子 を茵に乱暴に組敷き、盛るばかりだ。身動ぎひとつしない彼を嘲笑うように抱き潰す。
残忍非道とはまさにこのこと。
そんな無抵抗な兄弟子 に覆い被さった灰白の狼が恐ろしかったこともあり、童は声を潜めることに努める。
息すらも静かに、駆ける心の臓も必死に填めた。
しかしながら、いつも自分のことを一番に気に掛けてくれていた彼をみすみす無下にできるハズがない。
逃げる際、彼から手渡された呪符を知らず知らずぎゅっと握り締めた。
意を決して教えられた呪文を早急 に唱えたが、呪符は何も変化を齎 さなかった。
黒灰の狼 から逃げ仰せる時に使った一枚目は、難なく発動したというのに。
どういうことだと目算しても、緊迫の余り意識が途絶えそうになる。真っ白になる頭に更に脈が跳ね上がった。
静かに息を吸う。視覚から入る恐怖心がそうさせるのか解らないが、ひとつだけ解ったことがある。
灰白の狼に臆してから、呪の発動が弱まってきていることだ。
呪符が起動しないのもソレが要因になっているのだろうか?
解らない。解らない。解らない。
そうこうしているうちに兄弟子 は何も抵抗もせず、覆い被さった灰白の狼のモノを受け入れ、そして、あっさりと死に絶えた。だが、犯されているハズなのにその顔は終始穏やかで愛しいひとに抱かれているようでさえあった。
そして、ことの顛末 を観定めているうちに、童は灰白の狼の異能で異界に転送されたようである。
話は戻るが、今も駄目元で色褪 せた呪符を握り締め、呪文を唱えているのだが、込められた呪はやはり発動することはなかった。
万事休す、といったところだ。
大いに兄弟子 の云うことを素直に聞いていればこんな危険には晒されなかっただろうが、ソレを揺るがせてまでも童は赤褐の狼との約束だけは違うことをしたくはなかったのだろう。
幼き頃に交わされたソレは、童の希望でも切望でもあったから。
そう、幼くて親に捨てられた童は高家という陰陽師を生業としている家系に運よく拾われたが、彼の陰陽師としての素質はまったくなく、見鬼の才さえ持っていなかった。
当然、稀代の陰陽師に拾われたのだからと周囲には勝手な期待をされたが、そうでなかったと知ると彼らは手の平を返したように童のことを疎むようになっていたのだ。
そんな中、初めてみえた物の怪が赤褐の狼であった。彼はひとの言葉を喋り、高い知識を持っていた。彼が生まれたという異国は、そういう才能がまったくないモノでも呪が使えるという。
もし、その国へ行けたのなら拾ってくれた高 家のひとらに恩返しができる上、何よりも童のことを馬鹿にしていた門下生や内裏の同僚らを見返してやることができた。
そして、いつも庇って助けてくれた兄弟子 にも恩義を返すことができたのだ。ただ、その彼は目の前にいる灰白の狼に無惨にも殺されたのだが。
甘い香りが童の鼻を擽り目蓋を開けた途端、涙で潤んだ瞳が二本の足で器用に仁王立ちしていた姿を視界に入れる。
ソレは、灰白の大きな狼で、首廻りは鬣 のようなふさふさとした毛皮が生えていて、みた目以上に貫禄 があった。年の頃は十代後半、或いは二十代前半で、銀色に輝く瞳と大きな手足は人狼という物の怪と同じモノだった。その前二足にソレゾレ生えた五本と、後ろ二足にソレゾレ生えた四本の大きな爪は物凄く鋭く、ひとを斬殺するのにもってこいの得物であった。
尻をつけた状態でそんな灰白の狼のことをみ上げていた童は、唐櫃の奥に向かって後退りをする。
己の欲望だけを貫き通すそのふてぶてしい彼の態度に、おぞましいモノを感じたのだろう。
「心配するな、大丈夫だ。あの童 よりも丁寧に抱いてやる。なんせ、お前は俺好みで何から何まで俺の特別なのだからな」
容姿から性格、そして、性的興奮。こうもガッツリと嗜好に当てはまってしまえば、尚更ぞんざいには扱えない。
灰白の狼は、運がよければ生きておろうと無慈悲のような態度で残忍に嗤 った。
行き詰まった童は首を振る。赤褐の狼にはまったく感じなかった恐怖。慕っているという点を除けば彼もまた灰白の狼と同じなのだが、彼から受けた第一印象は恐怖ではなかった。
「──いゃ! ………こ、来ないで!」
白木 の板を背に、叫ぶ。
「ん? どうした? そう毛嫌うことはないだろう?」
コレからじっくりと愉 しもうではないかという嘲笑った顔が、ゆっくりと近づいてくる。
どうみても童が助かるみ込みはない。赤褐の狼がいたならまだどうにか助かっただろうが、その肝心の彼は今はいないのだ。
だが。
「シャムス! お願い、助けて!」
童は頭を両手で覆って叫ぶ。藁にでもすがりたいという願望なのか、ソレとも現実逃避なのか、助けに来てくれるハズがない赤褐の狼 の名を叫んだ。
「シャムスだと?」
灰白の狼は童の悲痛の叫びよりも、シャムスという彼がよく聞き慣れている方に眉根を深く潜めた。彼がよく耳にするシャムスは、赤褐の狼である狼人の王のことだ。
「………ぇ? ………シャムスのこと、知ってるの?」
片目を開き、薄っすらと灰白の狼の姿をみる童はボソリと呟く。
知り合いならという期待が少なからず顕になっているが、童のいうシャムスと灰白の狼の知るシャムスが同一だとは限らないのだ。シャムスという名はこの異界ではごまんという極ありふれた名で、ひとの世ではまったく聞いたことがない名である。
「ま、知らないワケではないが俺の知るかのお方 がそうだとはいえん」
この童がシャムス王の妾となれば灰白の狼の死罪は間逃れない。が、運がよいことに彼は王の一番の重臣であった。
つまり、王の行動はすべて把握しているということ。そして、彼からこの童のことは一切聞かされていなかったのだ。
そうなると、童がいうシャムスは王ではなく、どこぞの貴族の成上がり坊っちゃんということになる。ひとの価値を高く評価しているのは、ひとのオメガでないと子孫が残せれない貴族以上の狼人くらいだからだ。
因みに、第三階級の狼人からすればひとは短命でひ弱い生き物という認識だ。狼人の基本が、弱者には興味を持たないという傍若無人振りであるから。
「まったくなんてことだ。もはや、唾つきとは恐れ入った」
「つ、唾つき………?」
唾などかけられた覚えはないという顔の童はともかく、彼が唐櫃に隠れた理由が解ってすっきりするハズだったが、灰白の狼は渋い顔をする。
「しっかし、なんというか、コレはまたいろいろとしち面倒なことを吐きやがったな………」
灰白の狼がひとりそうゴチるのは、貴族の唾つきを喰った対処法方にだ。
地方の田舎貴族なら名声と金をやれば大人しく傘の下に下るだろうが、上流階級の落ちぶれ貴族だと王との謁見を要求してくるだろう。灰白の狼の後釜ならぬ王の簒奪 を狙い兼ねないことだ。
そう、日々王の挙げ足を取ることに躍起 になっている皇族は、大国の安泰よりも己の領地の安定に尽力を尽くしている。
言葉巧みに豪族や貴族を手懐けては、小競り合いを強いていた。
騎士道精神がない貴族が暴れれば大国の軋みは増すばかりで、荒れた大国の傘の下に入るよりも豪族や貴族らは自ら大国を作り上げた方が利己的である。が、壱から作るよりも奪った方が効率的だと彼らは知っているのだ。
豪族や貴族の腹の中がソレなら、重臣はソレを覆すのが仕事である。
だから、あからさまに面倒だという顔が面に出たのだ。
「何はともあれ、お前がいうシャムスというモノがかのお方 というのであれば厄介なことになる。だが、そんな偶然の一致のような奇跡はそう簡単には起こらん。残念ながら、お前はこの俺に美味しく頂かれることはどう足掻いても覆されることはなかろう」
凛とした態度で、そうはいうが一応カマはかけてみる。王が隠密で動いていたときの保険と、シャムスとかいう貴族の素性をもっと詳しく知る為にだ。
「お、う? シ、シャムスはシャムスだよ。赤褐の………」
そういいかけて、童ははっと息をするように言葉を呑み込む。
「ほう、赤褐とは珍しい。毛質が紅炎だとすればかのお方の血族或いは、豪族だな」
赤褐自体が珍しいから、直ぐにでも割り出せるだろうという灰白の狼に、童は言葉を失う。
「……………………っ!」
もし、欺瞞 者だったなら今の状況下を覆せたかもしれない。
媾合 再開を意味する灰白の狼の下舐めずりに、身体が強張る。
怯え切ったこの表情が、彼を愉快にさせるとは思いもしないだろう。
「うーん、コレは参った参った。こうもひと様のモノを横取りするという行為が乙だとは知らなんだ」
灰白の狼は、愛惜しいモノの手を取るように童の腕を掴む。
甘美に震えるという艶やかな瞳に、童は唾を呑んだ。彼がコレほどみ入る要素といえば、灰白の狼が持つ神秘的な色に輝く銀眼にだろう。
黒曜石のような黒い瞳が、真っ直ぐに向けられる。魅了されているという視線ほど、甘味なモノはない。
更なる興奮が過 るといいたげな灰白の狼は、その手の甲に鼻先を押しつけた。
ともだちにシェアしよう!