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「おい、待てよ!」 すれ違った男から、海老沢の匂いがした。 気のせいかもしれない。それなのに、オレは反射的にその男を呼び止めていた。 狭いカラオケ屋の廊下で、すれ違うとき、お互いに肩をずらした。その時にふっと、海老沢の匂いがした気がした。 「…… 誰?」 男は特に動じた様子もなく、微笑みながら誰何(すいか)した。 大学生のDom。 長身で短髪。ブルーのシャツを着ていた。 闇雲に海老沢を探し回った週末の繁華街で、さっき捕まえた山脇から聞けた情報はそれだけだ。 もういないかもしれないよ、そう言われたカラオケ屋に走って来たオレに、その男は小馬鹿にしたように笑いかけた。 「ああ、君もしかして、ダイゴ?」 その言葉に、ゾッと背筋が粟立った。 「ダイゴ」? なんで、知ってる? 動揺して言葉の出ないオレに、男は薄く笑いながら続けた。 「なんだ。あれ、君の?…… 言っとくけど、首輪させてないのが悪いんだからね。てゆうかさ、もっとちゃんと、躾けとかないと。」 「躾けとけ」…… ? その言葉の意味に、身体が震えた。 「命令」に従わないSub。 それとわかるのは、「命令」したDomだけだ。 「あいつに、何した…… ?」 怒りで、声が震える。握りしめた拳が、鼓動に合わせてドクン、ドクンと揺れた。 「尺らせただけだよ。墜ちちゃったから、もう帰ろっかなって。」 「墜ちた」。なんでもないことのように、男がさらっと口にしたその言葉に、海老沢がどんな状態でいるのかがわかって指先まで冷たくなった。 「あんまり下手だから、びっくりしたよ。言われた通りに全然できないし、無駄に時間がかかって僕も柄にもなくイライラしちゃっ…… っ」 怒りに任せて振るった拳は、ギリギリのところでかわされた。掴みかかろうと腕を伸ばすと、その手も片手で強く払われた。 「僕にかまってる場合じゃないんじゃないかな?」 男は余裕顔でニヤリと笑う。 「君のSub、あっちで墜ちてるよ?早く行ってあげなくて、いいのかな?」 男が腕を上げて、人差し指でオレの背後を指した。 ぶっ殺したい。 ボコボコにして、床に沈めたい。 全身の血が沸騰するような、凶暴な欲求に目眩がした。 だけど、海老沢をほっとくわけにいかなくて。 オレは胸糞悪いニヤニヤ男を見逃して、振り返った。 一つ一つ、廊下に並ぶドアのガラス窓から中を確認する。金曜の夜のカラオケルームはどこも人が入っていて、オレの心境とは真逆に盛り上がっていた。 いくつもの窓を覗き、突き当たりに近いところで初めて、空き部屋に当たった。 人がいない。 でも、部屋の電気も、カラオケの液晶画面も、点いたままだ。ローテーブルにはいくつものドリンクグラスが残っていた。 違和感を覚えてガラス窓に顔を押しつけるようにして中を覗いたら、床に見覚えのあるスポーツバッグが置いてあるのが見えた。 ハッとしてドアを開けると、ローテーブルの向こうに茶色い靴がのぞいていた。 「海老沢…… ?」

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