36 / 74

36.

呼びかけても反応のないその足に、恐る恐る近づく。 ちょうどローテーブルの陰になる場所に、丸まった背中が見えた。制服じゃないシャツが埃で汚れている。その背中は、小刻みに震えていた。 肩に手をかけても、反応がない。乱暴に揺すって抱き起こしたら、涙でぐちゃぐちゃに濡れた海老沢の顔がやっと見えた。 「海老沢!」 呼びかけても、目が合わない。見開いた目から涙を流しながら、その瞳は何も映していなかった。オレのことが見えてない。多分自分がどこにいるのかも、わかっていない。 完全な、Subドロップだった。 服は乱れていない。床に転がっていたせいで汚れてはいるが、脱がされた形跡はない。 尺らせただけ。 それでも充分腹立だしいが、その言葉に嘘はないだろう。 でもきっと、海老沢はひどい恐怖を感じただろう。 セーフワードを設定していないと、Subは危険を感じてもDomに逆らえない。 何をされても、拒否できない。 生まれついた性質を一方的に利用され、従属させられるその状態は、Subにとっては恐ろしいストレスで。 海老沢が感じた恐怖を思うと、あの男の罪は、実際にさせたこと以上に、重い。 極限状態に置かれたSubに残された最後の自衛手段が、ドロップだ。 全てを遮断して、無意識下に堕ちる。 何にも従わず、何も受け入れない。 自衛と言っても、それは諸刃の剣で。 あまりに長い間そのまま放置されたら、一生そこから抜けられなくなる。 早く引き上げてやらないと、海老沢の心はそのまま、壊れてしまう。 なんでこんなことになったんだよ…… っ !! オレはまるで人形のように反応のない海老沢を腕に抱いて、痛むほど奥歯を噛み締めた。 ***** この状態で家に帰すわけにいかないから、オレはとりあえず海老沢をうちに連れて帰った。 海老沢は、立たせてやれば立ち、手を引けば歩いた。いつのまにか涙は止まり、何も見ていないような目はぼんやりと世界を映し始めたようだ。 表情はないまま、話しかければ聞こえているらしいことだけは、緩慢な目の動きでわかるようになった。 ただ、何を聞いても返事はない。 白くなるほど 強く唇を噛んだまま、一言も口をきかなかった。 ベッドに座るように促すと、海老沢は言われたとおりにゆっくりと腰を下ろした。 オレのことが、わかっているのかどうかもわからない。抵抗せずについて来たけど、ただ流されているだけかもしれない。 現に海老沢は、怯えたような目でオレを見ていた。 さっきから、気になっていたことがある。 外にいるときには、空気にいろんな匂いが混ざっていて、確信が持てなかった。 でも。 自分の部屋に戻ってきて、その違和感は益々強くなっていた。 唇を引きむすんだ海老沢の、鼻から吐く息に、異様な匂いがする。 「尺らせただけ」「時間がかかって」そう言ったあいつの言い分からして、口で最後までさせたんだろう。それを飲まされたのなら、胃からその匂いが上がってくるのもわかる。 でもそれが、こんなにいつまでも匂うものだろうか…… ?

ともだちにシェアしよう!