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「次、こっち向いて。」
そう言うと、海老沢は緩慢な動きで身体の向きを変えた。一瞬目が合うと、逃げるように逸らす。寂しさを覚えるけれど、それに気づかれないようになんとか笑ってみせた。
「耳…… 洗うけど。痛かったら、言って。」
できるだけ、そこに触らないように。泡で撫でるだけで、紫色の耳を洗った。あいつが触ったところなんか、ほんとはゴシゴシ擦りたいけど。
「痛くない?」
そう聞いたら、海老沢は少しだけ顎を引いた。
「そう…… いい子。」
反応したことを褒めたつもりのその言葉に、海老沢の身体がビクッとした。えっ、と思って顔を見ると、見開いた目が揺れている。小刻みに震える濡れた身体には鳥肌が立っていた。
「…… やだ …… 」
震える唇が、ぽつりとそれだけを言った。
「いい子」はDomがSubを褒めるときの決まり文句だ。今まで、オレだってベッドで何度も海老沢に言った。Subにとっては一番ストレートに承認欲求に響くはずの言葉で、海老沢はいつも、溶けるような顔で笑ってくれたのに。
「ごめん…… もう、言わないから…… 」
海老沢がその言葉に怯える理由なんて、一つしかない。セーフワードも決めず、合意もなく、強いられた奉仕。命令に従わず、うまくできないと耳を捻られ、痛みと恐怖に襲われながら。屈辱にまみれて服従させられている最中に、きっと何度も言われたのだ。
「いい子だね」と。
その言葉は、恐怖とともに海老沢の心の奥底に刻み込まれてしまったのだろう。
ドロップしたSubは、承認欲求を満たすために褒めてあげるのが一番なんだけど。
改めて言葉を選び始めて、自分が「いい子」という基本的な言葉にばかり頼っていたことに初めて気づいた。
「海老沢…… 嫌なこと、ちゃんと…… 言ってくれて、ありがとう。」
迷った末にそう言うと、凍り付いていた海老沢の目が、ふっと柔らかくなった。
恐る恐る、泡のついた手で頬を撫でる。海老沢はピクリと肩をあげて一瞬顔をしかめたけど、ほっとしたように息を吐いて身体の力を抜いた。
オレはボディソープを泡立て直して、海老沢の首から肩、それから腕を、順に洗った。胸に手を当てると、海老沢の身体が少し強張った。
指先が、乳首を掠めたからだ。
爪が当たらないように、厚みのない海老沢の胸を泡で撫でる。指がそこを掠めるたび、身体がピクピクして、刺激に応えてその突起が泡の下でぷくりと勃ちあがった。
「ここ、…… 気持ちいい?」
「…… わかんない…… 」
「嫌じゃない?」
海老沢はこくりと頷いた。
あいつに触られていないところだ。そうはっきりとわかって、ほっとした。でも今は、「洗う」を越えたことはしない方がいい。
多分下も、触られてないんだろう。でもそこに、今触っていいのかわからない。洗うだけなら、大丈夫かな……?
嫌だったら言ってくれるかなって考えた瞬間、
「もしかしてダイゴ?」
そう聞いてきたあいつの声が、脳裏に蘇った。
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