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第8話

 プリンセス――あゆみちゃんの帰ってくる時間に合わせて、事前に作っておいたハンバーグを焼き始めた。ゼラチン、冷水、塩で肉の密着度を上げて、タネにはチーズを仕込んである。表面に小麦粉を塗布して試しに焼き上げたミニサイズのハンバーグは、味見をした松本が「お店の味だ!」と先ほどとほぼ同じ反応をしていたのできっと成功だろう。  ただいま、と女の子の声が玄関先から聞こえてくる。それからすぐに、ばたばたと足音をたてて小学校低学年の少女が駆け込んできた。 「おいちゃん、あゆが帰ってくるまで勝手にごはん作らないでっていつも言って……! ……あれ?」 「ハァイ、プリンセス。今日はまっさんの地獄料理じゃなくて普通のハンバーグだぜ」 「じごくりょうりって、あのねえ、そんなひどくないよ!」  慌てて走ってきた少女に笑顔で手を振る。こちらの言葉に、隣の松本が反論してくる。無視で良い。 「わあ、いいにおい。お兄さんレストランで働いてるの?」 「そうじゃないけどね、俺は可愛い女の子にごはん作ってあげるのが趣味なんだ」  いやはや年齢的には守備範囲外ではあるが、やはり将来有望そうなお嬢さんだ。 「誠一くんにそんな趣味があったとか聞いたことないんだけど」 「はいはーい、おいちゃんは役に立たねえから飯でもよそっといてなー」  松本を狭い台所から追い出したタイミングで、あゆみちゃんがランドセルを置いて、丁寧に手を洗ってから台所に戻ってきた。 「あゆ手伝えることある?」 「ありがとう、それじゃあそこに置いてるケチャップとソース、調味料に混ぜてくれるかな」 「うん」  待ってそれだったら僕もできるんだけど、と松本の声が聞こえてきたが、やはりこちらも無視である。 「ねえ、お兄さん、おいちゃんのお友達?」 「うーん、まあそんな感じ」  ボウルでソースを混ぜ合わせるあゆみちゃんが、こちらを見上げて訊ねてくる。セフレもフレンドだし友達枠でいいだろたぶん。嘘じゃない。 「そっかあ」 「誠一っていうんだ。よろしくね、あゆみちゃん」 「うん。……あのね、あゆが言ってもおいちゃん聞いてくれないから、お兄さん何か知らない?」 「なになに、内緒話?」  お耳貸して、とばかりに手招きされ、フライパンにアルミを被せながら彼女の口元に耳を近づける。 「おいちゃんね、最近好きな人がいるんだと思うの。でもあゆが聞いても、一番好きな女の子はあゆだよって言って誤魔化すの」 「へええ……まっさんが」 「誠一お兄さん、何か知らない?」 「ごめん、知らないなあ……でも、お兄ちゃん調べ物は得意なんだ。こっそり調べておくよ。女の子の勘はばかにできないからな、きっと何かあるぜ」 「ほんと? ありがとう!」  こちらの言葉に、あゆみちゃんは喜びを全身で表現してきた。嬉しそうに彼女が抱きついてきて、小さな体を受け止めたその瞬間を松本が恨めしそうに覗き込んでいた。 「誠一くん……うちの子たぶらかさないでくれる……?」 「ははは、こええな! プリンセス、俺たちがラブラブだとおいちゃん焼き餅やくみたいだからこの辺でやめてやろうぜ」 「うん。誠一お兄さん、このソースどうするの?」 「焼き上がったハンバーグをお皿に入れて、今度はそのソースをフライパンで焼く」 「ソースも焼くんだね」  混ぜ合わせたソースの材料をあゆみちゃんから受け取って、かわりに皿に移したハンバーグを手渡す。酸味を軽く飛ばしたら、彼女の手の中のプレートへフライパンから直接ソースを流し込んだ。 「はい、完成。お昼に作ったポトフと、まっさんがちぎったサラダもあるから一緒に持ってって」 「まかせて!」  こんなに良い子が毎食消し炭か袋麺の生活をしているのだろうか。自分もそう大したものが作れるわけではないが、松本に料理教室でも開いてやりたいくらいである。 「いや、まっさんに教えるよりプリンセスにそのまま教えた方が効率よさそうだなあれ」  松本の分まで皿に盛りつけて、大量に焼き上がったハンバーグは冷凍保存させておくかな、と考えていたところ、配膳を終えたあゆみちゃんが再び台所へ戻ってきた。 「誠一お兄さんもごはん食べるんだよね?」 「へ?」 「だって、おいちゃんがお兄さんの分のご飯もお茶碗によそってたよ」 「……マジか」  家族団らんにおじゃまするつもりはなかったのだが、そうまでしてもらっているならここで帰るのも気まずい。 「じゃ、少しだけディナーに混ぜてもらおうかな」 「お兄さん、お箸は青がいい? 黒がいい? 緑?」  食器棚の引き出しからあゆみちゃんが取り出したのは、赤青黄緑黒桃色の色とりどりのお箸だった。ハンバーグならナイフとフォークじゃねえの、と思わないでもないが、話によると松本は向こうでお茶碗にご飯を盛っていたようなのでお箸が正解かもしれない。 「どれでもいいよ。カラフルだね。あゆみちゃんは何色?」 「あゆはいつもピンク。おいちゃんは青か緑なんだよ。赤がママでね、黒がパパだったんだ」 「……そっか」  いなくなってしまった人の痕跡があちこちに残る家で、彼女は笑って毎日を生きている。そんな当たり前のことに今更ながら思い至って、言葉が詰まった。 「黄色、借りてもいい?」 「うん。持っていっておくね!」  そういえば、自分の子供の頃の好物ってなんだったっけ。夕食のハンバーグに鼻歌がこぼれるあゆみちゃんの背中を見送って、自分の分の盛りつけを済ませる。残りはタッパーに入れて冷蔵庫行きだ。  母さんの作ったオムライスとか、父さんがたまにこっそり連れていってくれる居酒屋の唐揚げとか、そんな感じだった気がする。調理中の母と、車を運転する父と、どんな会話を交わしていたのかももう覚えていない。  ただ、好物そのものよりも、子供心に過程の方が重要だったのは確かだ。  普通とはかけ離れた家庭だった。あっけなく崩れ去った家族だった。それに対して、何か郷愁めいたもの抱くことすらなかった。  だが確かに、生まれてからたった数年間の中にも普通の日常だってあったはずだった。こんなにおぼろげに風化していってしまうまで、思いだそうとしなかったのは自分だ。 「誠一くん? 用意できた? あゆ待ってるよ」 「あ、ああ。悪い。今行く」  いつまでも台所から出てこない自分を、松本が呼びに来た。めちゃくちゃになっていた価値観が、少しずつ、まるで欠けた月の満ちてゆくように、修復されていくみたいだった。

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