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第19話

 心配して電話をしてきてくれた宗太のおかげで、ひとまず彼の痕跡の残るホテルの一室からは出て行ける程度にはメンタルが回復した。  とはいえ今日は一人で眠れる気がしないので、明け方まで営業しているバーで飲み明かして酒の力で強引に眠ってしまった方がよさそうだ。  てきとうに近場で目に付いて入った店は、グランドピアノの置いてある、静かなショットバーだった。  カウンターの隣の見知らぬ男性客が懐かしい酒を飲んでいたから、少し昔を思い出してしまう。  『死んでもあなたと』。  男性客は一人で、静かにその一杯を舐めていた。わけありくさいその様子に毒されて、その場から逃げ出したくなってくる。  子供の頃、兄を飲み歩きから回収していた時の記憶だ。これは『二人だけの秘密』、これは『君と明日を迎えたい』、そんでこれが『死んでもあなたと』。飲みながらそう解説する兄の声が、まるで自分に向けられているようで。勘違いだと頭で分かっていても、すぐ隣、彼の声で紡がれる睦言のような恋の言葉に、耳を傾けるのが幸せだった。それがカクテル言葉なのかきざったらしい名前なのか、当初自分には理解できなかったけれど。  彼も自分も凝り性で、少しでも面白く感じるとそれが実際に有用かどうかなんて考えもせずにひたすら酒の意味を覚え尽くしていた。一般的にも、洒落たアルコールを口にするのは決まって夜になるはずで、薄暗い店で心に酔う場面のお供なのだからカクテルには恋愛関係の意味合いが付属しがちだ。彼は純粋に知識を増やすのを楽しんでいただけかもしれないが、自分にとってはそれだけではなかった。  意味を訊ねるふうを装って、きっと一生言えないだろうと胸の奥深くに沈めていた彼への想いを酒で表せたのだから。  ――兄ちゃん、これなんだっけ?  ――君に触れたい、だね。  そうして彼に言ってほしい言葉を選んで、敢えて訊ねることもできた。思い返せば女々しい行動だったが、そうでもしないと抑えられそうになかったのだ。  ――ふーん。おいしい?  ――こういうのはね、好きな子と一緒に飲むのが一番おいしいんだよ。  自分が「兄を迎えに来ただけの子供」なのが悔しかった。早く一緒に酒を飲めるようになって、気持ちを共有したかった。  大切だとはいえ、精神衛生上あまりよろしくない思い出は出来る限り記憶の底に眠っていてほしいものだ。  隣の男性客はというと、先ほどの一杯をあけた後は、こちらがげんなりしている間にも次々と酒を頼んでは飲み干している。『もう一度会いたい』。次は『心はいつもあなたと共に』。そして『今も君を想う』。ああ、あんたも失恋か何かですか。奇遇ですね俺もです。  酒の肴はしばらく、お隣さんの飲んでいる酒のチョイスだった。こういうの、昔取った杵柄とか言うんだったか。  お隣さんがまた、新しい酒を飲み始めた。あれは、確か、『あなたを救う』。総合的に考えると、失恋じゃなくて恋人の病死とかかな。勝手な妄想が膨らんでいく。救いが必ずしも生きることであるとは限らないけど。この酒は、兄が「殺して」と囁いた時に飲んでいた。  ……好きだった人が口にした酒は、本当は全部覚えている。わざわざ訊ねる必要だってなかった。  青い月のような叶わぬ想いに子供ながら少しばかり酔っていただけ。あれからピュアとはずいぶん遠くまでかけ離れてしまったが、それは今も似たようなものだ。  駄目だな。このお隣さんが一緒では、今考えたくないことを思い出しながら酒を飲むはめになってしまう。手元のグラスを呷って、別の店で飲みなおすべく店を出る。スマホを確認するとあれから四時間近くが経過していて、そろそろ日をまたぐ時間だ。  そのタイミングで、スマホが着信画面に切り替わる。表示名がないが、番号は松本のものだった。自分で連絡先消したのだから表示されなくて当然である。  店先のコンクリにそのまま腰掛けて、通話に応答した。 「どしたーまっさん、もう寂しくなった?」 「誠一くん? あのさ、うち来れたりする?」 「おいおい、もう日付変わるぜ。急用?」  連絡は来ないだろうと思っていたところ、その日のうちの連絡に面食らっている自分がいる。それから、状況を邪推してみる。あのあと例の山岸さんと話しこんで日曜日に出かける約束でもしたんだろうか。同じ服装で行くわけにもいかないから、服のことで相談の連絡、とか。ありそうだ。 「なんかねえ、今、君に会わないといけない気がして」  せっかく一番考えうる可能性を見つけ出してきて納得しかけたところだったのに、彼の何気ないひとことでその可能性は否定されてしまった。 「さっきまで一緒にいたじゃん」 「ちょっと、自分は何時でもお構い無しに連絡してくるくせにそれ言う? そりゃあ、もう休むところだったなら、無理にとは言わないけど……」 「俺は、今まで飲んでてちょうど店出たところだった。……そっちにはプリンセスがいるだろ。用があるわけでもなさそうだし、エッチできないの確定なのにこの時間にセフレ誘うか普通?」 「セックスなんてしなくてもいい」 「……じゃあ何か、寝物語でも聞かせにくればいい?」 「君がそれで納得するなら」 「なんだよそれ」 「来る理由なんて、なんでもいいんだ」  彼と通話を始めたとたん、どこか肌寒かった夜の気温がふわっと上昇した。気のせいかもしれないけど。  自分に彼を縛る資格なんてなくて、この春の陽気みたいな空気も、平穏そのものな家族も、自分からすれば別世界の存在だ。 「なんでもいいから――うちへおいで」  絶対に俺のものにはならない。でも、だから、そこがいい。  わがままには苦笑で答えてくれて、無茶振りには面白いほど慌ててくれて、彼の前では単なる年下の男でいられるのが、ただ、心地良く感じるのだけは、認めようと思う。 「うん……行く」  自分がうだうだと考えているよりも、春はそれほど遠くない。簡単にそう思えてしまうくらいには、耳元に届く声は優しかった。

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