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6:引き返せなくなる、

夜明け頃目を覚ますと、眠っていた時間が短かったせいかまだ月瀬は部屋にいてくれた。 …正直大変気まずい思いもあったが、月瀬はあの通り何事に対しても冷静というか、ちょっと不安になるくらい動じない人なので、真稀の方も切り替えることにする。 よかったら朝食でも、と誘ってはみたものの、よくよく考えてみればここのところまともに食事をしていなくて、米と冷凍の鶏肉とちょっとしなびた野菜しかなかったので炒めるくらいしか思いつかず、そして揃いの食器などない一人暮らし感満載の食卓になって、謎の敗北感に打ちのめされながらも出してみたところ。 「……美味いな」 姿勢もよくスプーンを口に運んだ月瀬には、意外にも好感触だった。 「そ、そうですか?何の食材もなくて朝からチャーハンとか微妙なメニューで……すみません……」 月瀬には日本の伝統的な白米とみそ汁と焼き魚に漬物……という朝食が似合うように思うのだ。 しおれたが、「謝ることなど何もないだろう、本当に美味しい」と重ねられて、ソワソワする。 喜んでもらえたりしていたらとても嬉しい。 「月瀬さんは、普段は食事はどうされてるんですか?」 「外食だな。昼は人と会うことが多いのでそれで済む」 朝はコーヒー。夜は酒とつまみ程度だという。 その食生活は意外だった。 いつも美味しいお店に連れて行ってくれるので、食にはそれなりにこだわりがあるのかと思っていたし、なんとなく規則正しい生活を送っているように見える。 「食の重要性は理解しているし、同僚には人生の十割を損していると言われるが、こだわりがないのでどうしても優先順位が下がってしまうな」 真稀が驚いているので気まずくなったのか、月瀬はいつもよりも少し歯切れ悪く言い訳した。 それが少しかわいいなと思いつつも、流石に同僚の人の十割は言い過ぎだと思うが、少し不健康に思えてしまう。 この時の真稀は、深く考えると気まずい経緯はともかく普通の食事ができるほどに復調していたのと、やはり経緯はともかくいつもよりラフな月瀬を前にして少し気が緩んでいたのだと思う。 作ったものを美味いと褒められて、少しいい気分になっていたのも確かだ。 「なら俺、作りに行きますよ」 その緩みが、こんな一言を口走らせた。 無論、冗談というか話の流れというか、適当に「そうだな、そのうちに」なんて言ってもらえればそのいつかを楽しみにしばらく頑張って生きていけるなあというそんな軽い一言だったわけで。 「それはいいな。是非頼む」 力強く同意した月瀬が「なんなら越してくればいい。色々と都合もいいだろう」「業者を呼んで使っていない部屋を片付けさせておく」…と懐からスマホを取り出すに至って自分の失言を理解した。 「ま、待って下さい、冗談…、です、よね?」 「冗談?何がだ?」 本気しかない表情で首をかしげる月瀬に何と言っていいかわからず口ごもる。 「ああ、いや、もちろん毎日食事を用意してほしいという話ではなく、君の気の向いたときで構わない」 「っそ、そこではなく!…引っ越す…とか部屋を用意…とか」 「何か問題があっただろうか」 問題しかないと思うのですがどうですか。 不思議そうに聞き返されても対応に困る。 四年前は自分の置かれた状況を全て話すことができず、とにかく自活したいということで一人暮らしをさせてもらっていたが、全て話した今は真稀をそばに置くということが危険なことはわかったはずだ。 たどたどしくそれを伝えると、月瀬はしばし黙考したが、 「セキュリティの面で言うならここよりも私のマンションの方がしっかりしているし、そのハンターとやらが本当に妖魔を殺す存在なら、普通の人間が側にいる方が狙われにくいのではないか?」 という正論を展開してきて、またしても押し切られた。 気付いたら引っ越しの日取りまで決まっている月瀬の交渉力は、以前言っていた『各方面への折衝』という仕事で培われたものなのかとか無駄に納得……している場合ではなかった。 大変、困る。 嫌なのではなく、嬉しいことが、だ。 ほんの少しでも『鬱陶しい』など反発する気持ちがあれば断れたかもしれないが、朝あれだけ気まずくても月瀬がいてくれてほっとしてしまったくらいだ。断りきれるはずもない。 こんな状態で月瀬の部屋に住まわせてもらうなどと、そんな距離感で自分は好きだという気持ちをどれだけ殺しきれるのだろうか。 ――まだ月瀬との関係については真稀にとって未解決な部分も多いというのに。 朝からそんな濃いやり取りがあって、「それでは夜に」という挨拶で月瀬と別れ、狐につままれたような気分のまま登校した。 大学は、昨日の今日でまたあんなことがあったら、と不安もあったが、高卒で働こうとしていたところを『勉強が嫌いでないならば行っておいて損はない』と進学を薦めてくれたのは月瀬だったし、できればきちんと卒業したいと思っているので逃げ出すわけにはいかない。 身を守ることに関しては、昨晩月瀬に話をしたことで母が自分の持つ力を誘惑以外のことに使っていたことを思い出したので、何かあれば試してみようと思っていた。 構内を歩いていると、件の知人が歩いているのが見えた。 避けて通れないとはいえ、どんな反応をされるかわからず身構えた、その時。 「なあ、ちょっといい?次の講義の場所に全然たどり着けないんだけど、道教えて?」 ポン、と肩に手を置いて軽い調子で声をかけてきたのは、真稀より少し背の低い、見たことのない学生だった。 艶やかな黒髪は少し前髪が長めで、キュッとつり上がった瞳は大きく、一瞬少年かと思ったが表情にあどけなさはない。真稀よりは年が上だろう。 編入生だろうか。大学には色々な人が来るので学生ではない可能性もあるかもしれない。 聞けば真稀と目的地が同じだったので、不思議に思いつつも案内がてら共に向かうことになった。 「いやー助かった。俺方向音痴でさ。あ、俺鷹艶(たかつや)神導(しんどう)鷹艶ね。お前は?」 「千堂真稀です」 「よろしくな、真稀」 眩しい、人懐っこい笑みだ。 ともすれば馴れ馴れしいともとれる態度だが、全く嫌味がない。 真稀は血のなせる業か、夜の街でなくても同性からナンパされることもあるが、そういう人間特有の欲のようなものも一切感じられないので、なんだか安心してしまう。 「場所がわからないってことは…鷹艶さんは編入生…ですか?」 「あー…まあ、長い人生、色々あるよな」 「そうですね」 しみじみとした一言に、今朝のいきさつを思い出して妙にシンパシーを感じて思わず強く同意すると、鷹艶が吹き出す。 「お前いい奴だな。色々あるついでに講義終わったらなんかメシ食えるとこまで案内してくれ」 真稀も素直に鷹艶がいい人だと思ったので、いいですよと笑い返した。 結局そのまま昼食も一緒に摂り、そんな印象的な出会いがあったせいか、気づけば不安な気持ちも忘れていた。 ついでに本日の帰還先が自宅ではないことも忘れていたが、月瀬から『十九時頃には帰宅できそうだ。部屋はどこも好きに使ってくれて構わない』という連絡が届いて、朝のことは夢ではなかったのだと、結局現実に引き戻されたわけなのだが。 そして、どうしてこうなった、と。 賃貸ならば家賃が自分の住む安アパートとゼロ一つ違うくらいでは済まないであろう高級マンションを見上げながら、ネギも突き出たスーパーの袋片手に、今更ながら真稀は背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。 「(憧れで…よかったんだけど)」 『もしかしたらおとずれたかもしれない未来』で十分だったのに。 手の中の鍵は朝渡されたもので、質量以上の重みを感じてしまう。 『お、俺が出入りして変な噂とか立っちゃったらどうするんですか?』 『後見人が被後見人を養うことがそれほど不自然なこととは思わないが。万が一ハンターとやらの襲撃があったとして、土地も建物も私の物なので揉み消しやすさにも利点がある』 そんな会話を思い出してちょっと気が遠くなりそうになる。 「(これが全部持ち物とか……生活水準が違い過ぎる……)」 母は高級ソープで人気の嬢だったので、住んでいたのは安アパートだったが貧乏暮らしというわけではなかった。 高校もそれなりの偏差値の進学校で裕福な同級生も多かったが、これといって気おくれしたり劣等感を抱いたこともなかったと思う。 月瀬の現住所は知っていたし、着ているものにしても連れて行ってくれる店にしても、経済力という言葉を感じさせるものではあったが、今までは『彼は大人だから』で済んでしまう距離感だった。 真稀が成人して後見人でなくなればほとんど縁のなくなる人だと思っていたからあまり気にならなかったのだが、いまは何かとても自分の場違い感が気になる。 不相応だと、そう実感してしまうのだろう。 ヒトの中で目立たないようにという意図もあるが、ファッションという視点で服を買ったことのないカジュアルかつ量販感の溢れる自分がピカピカのエントランスのガラスに映ると、真稀は大きくため息をついた。 とりあえず、早く入ってしまおう。 真稀は勇気を出して一歩を踏み出し、最上階を目指した。 「お、お邪魔します…」 鍵を開けて入る主不在の部屋は、まず玄関からして広い上に、自動で電気がついてドキッとさせてくれる。 恐々と廊下を直進した先が広い対面式キッチンのあるリビングルームで、天井まである窓からは東京の街が広がっている。 なんとなく予想していたのだが、どこにも私物らしきものが置いておらず、生活感はほとんどなかった。 真稀の部屋にも大学に通うのに必要なもの以外はPCくらいしか置いていないが、家事をするのは好きなのできっと無機質な印象はないのではないかと思う。 どこもかしこもモデルルームのようにピカピカなこの場所は、月瀬にとって『帰るべき場所』なのだろうか。 きれいすぎて落ち着かないというか畏れ多い。 粗相があってはいけないと、月瀬が帰ってくるまでキッチン以外には触らないでおこうと固く誓った。 初めて使うキッチンと格闘し終えた頃、予告した時間ちょうどくらいに月瀬は帰宅した。 「お、お帰りなさい」 鍵を開ける音で出迎えると、月瀬がちょっと驚いた顔をしたので、おかえりなさいは違ったかと慌ててしまう。 「あっ…あのっ…すみません、お、お邪魔してます…!」 下げた頭にぽんと手が置かれる。 「……ただいま。いい匂いがするな」 優しい声音にじわりと、あたたかい気持ちが胸の内を満たすのを感じた。 不相応さにしぼんでいた心が勇気を得て、自然と笑顔がこぼれる。 「夕飯、出来てますよ。すぐ食べますか?」 「そうだな、いただこうか」 着替えてくる、と月瀬は主寝室らしき部屋に入って行き、真稀は支度を再開するべくキッチンへと戻った。 今朝のリベンジ、と思い張り切った夕食は、大変好評だった。 食器や調理器具も充実していたので、中々見栄えもいい食卓になったと思う。 揃いの食器が多いことに一瞬、誰かと住んでいたことがあるのだろうかという疑問が浮かんだが、邪推は止めようと中断した。 メニューは金目鯛の煮付けに茶碗蒸し、千切りサラダには手作りの和風ドレッシングを添えて、かぶの味噌汁と白米。 料理は母と住んでいた場所の近くにある商店街の人達に習った。 家事が壊滅的な母親に代わり本当に小さい頃から家事をはじめたものの、家の中には聞ける人もいないので食材を買いに行った先で情報収集をするしかなかったのだが、小さい真稀がメモを取りながら熱心に話を聞いているのが健気に見えたのか嬉しかったのか、みんなそれぞれに自分の持てる知識を授けてくれたため、一人で生きていくのに不自由しないだけの家事のスキルを身につけることができた。 母親以外の人に食べてもらう日がくるとは思っていなかったが、月瀬に喜んでもらうことができたので、幼い自分が報われたような気がして嬉しかった。 食事を終えると、家の中を案内してもらった。 好きに使っていい、と真稀のために用意された部屋は、あの安アパートの一室がすっぽり入りそうな広さで、ベッドにしても机にしても明らかに全て新品の物が揃っていて、正直目眩がした。 なんとなく『魔王』の塔での『マサキ』と似た展開のように思えるが、月瀬は世界を管理している神がかった存在でもない。…だろうと思うし、真稀には夢の中の自分と違って知識があり、これがちょっと金銭的に普通ではないとわかってしまう。 本当の本当に今更だが、月瀬は一体何者なのだろうか。 彼が勤めているらしい国立自然対策研究所、がどんな施設かはわからないが、字面からはあまり高級なイメージはわかない。 歓楽街とは縁の深い真稀から見て、裏社会の人間の気配もないが、真稀の事情を聞いて驚いた様子がなかったというのは、裏社会でなくても何か、普通とは違う世界に生きているのではないかとも考えられる。 「(聞きたければ聞けばいいのに、聞けないのは…)」 色々なことをはっきりさせてしまえば、月瀬の側にいられないと思ってしまうかもしれない。 月瀬の素性がどうでも、真稀が彼を慕う気持ちに変わりはないだろう。 「(…………眠れない…………)」 自分がうろうろしていては月瀬がくつろげないかもしれないと、さっさと寝ることにしたものの、ベッドに入っても一向に眠気は訪れない。 月瀬のことをぐるぐると考えて、幾度目かの寝返りの末に眠ることを諦めて起き上がった。 「(水でも飲もうかな……)」 部屋を出ると、月瀬の寝室から明かりが漏れている。 まだ起きているのだろうか。 持ち帰った仕事をしていたり読書をしているならコーヒーでも淹れて、いやでもそんな習慣なかったら迷惑かもしれないし、などと考えているとドアが開いてビクッとした。 「どうした、眠れないのか?」 月瀬の方には驚いた様子はないので、眠れずにいることをさとられていたようだ。 「あっ…えっと、その……お水をもらおうかと思ったんですけど、月瀬さんまだ起きてるみたいだからコーヒーでもどうかと思って……でもいらないかなとか……」 動揺してつい全部言ってしまった。 「……では、いただこうか」 「えっ」 「よければ、君の分も一緒に。眠れないのならば少し話をしないか」 断る理由など何もなく、真稀は足早にキッチンへと向かった。 月瀬の寝室は、寝室というより書庫のようだ。 作り付けの本棚が壁一面に広がり、びっしりと本で埋まっている。 ノートPCが置かれたデスクの上にも本が積み上がり、ベッドサイドのテーブルにも何冊も本が置いてある。 つい興味津々に見回していると、促されてキングサイズのベッドの上に恐々腰かけた。 下はスーツよりは…という程度にラフなチノパンに履き替えたようだが、未だワイシャツのままの月瀬はデスクの前に座り、自宅にいるためかリラックスした様子だ。 深く考えると動揺しそうなので目をそらし続けてきたが、ここで月瀬が寝起きしているのだと思うとドキドキする。 「やはり、他人の家は落ち着かないか?」 緊張していることが伝わったのだろう、月瀬からの問いに、真稀は素直に答える。 「枕が変わると眠れないとかではないんですけど…誰かの家に泊まるのは初めてで、…少し、緊張しています。あの…月瀬さんは、俺がいて邪魔になりませんか?」 「私はあまり他人の動向に行動を制限される性質ではないからな」 心配していたことをあっさりと否定してもらえて少しほっとした。 神経質そう、と思っていたが、自衛官だったのならば共同生活には慣れているのかもしれない。 今が、好機なのではないか。 かねてよりの疑問をぶつける。 「…月瀬さんのことを、聞いてもいいですか」 構わないとカップを片手に彼が頷く。 「あの………………、」 聞きたいことはいくらでもあった。母との関係、月瀬の仕事のこと、…どうしてこんなによくしてくれるのか。 真稀は、緊張に震える口を開いた。 「夕飯、嫌いなものとかなかったですか?あと、アレルギーとか…」 しかし出てきたのはこんな日常的な質問で、正直、自分の意気地の無さには内心頭を抱える。 月瀬は特に不審に思ったりしなかったようで、素直に答えてくれた。 「特に好き嫌いもアレルギーもない。君の作りたい時に食べたいものを作ってくれればいいし、そう義務的に捉えてくれなくて大丈夫だ」 「ずっとやってたことなので義務…とかいうよりは習慣ですが…」 気後れも緊張もあるが、今日、スーパーでレシピに悩み、喜んでもらえたらいいなと思いながら料理をするのは、とても幸福な時間だったと思う。 それ以外にもおそらく払わせてもらえないであろう揃えてもらった家具の料金や家賃のことを考えると、家事をして今まで外食や人を入れていた分を負担するくらいはしたい。 それを伝えるとしばし考えた月瀬は「まあ、そうだな。それが君の負担にならないのであれば私は助かるが…」と言ってくれた。 「君の学生生活に差し支えない範囲で頼む。ああそうだ、これを」 引き出しから取り出して渡されたのは鍵とやけに厚みのある封筒だ。 「合鍵と食費だ」 「…鍵は…いいんですけど、これは一体何日分の食費で…」 「君が食事を作るのにかかる費用がどれくらいかわからなかったからな。あとは生活していて必要なものがあったら遠慮なくなんでも買うといい」 デパートで毎日食材を買っても二人で使い切るのはそれなりにかかりそうな金額ですがどうですか。 本当に聞きたいことは聞けなかったものの、金銭感覚が自分と違うことと、見た目よりも大雑把な性格だということだけはよくわかった。 「月瀬さんって…スーパーとか行ったことありますか?」 「いや、ほとんどないと思うが。足りなければ」 「お、多いっていう話ですよ!」 「多い分には問題ないだろう」 信用されていると喜ぶべきなのか、思うところはあるが、どちらにしても自分には無駄遣いのあてはないのでいいかと受け取っておく。 しまっておけばいいだけの話だ。 …いつまでここにいられるかもわからないし。 馴染んでしまう前に、なるべく早めに出ていくべきとも思っている。 「(他愛もない話をしたり傍にいられることがこんなに嬉しいなんて……これが普通になってしまうのは……駄目だ)」 そっと視線をカップに落とすと、揺らぐ自分が心許無く写っていた。 会話が途切れると、不意にカップを置いた月瀬が、立ち上がり真稀の座るベッドへと移動してきた。 微かにスプリングが音をたてて、緊張してしまう。 「美味しいものをご馳走になった、私も対価を払わなくてはいけないな」 「対価…なんて、そんな」 「今日は必要ないのか?」 体温を感じる距離。 いたずらっぽい瞳に覗き込まれて、ドクン、と鼓動が鳴った。 ずるい、と思う。 そんな気配は微塵も感じさせなかったのに。 それまで意識していなかった飢餓感が急激に頭をもたげるのを感じる。 「ほ…しい、です…」 反射的に、そう答えていた。 ワンパターンだなあ、と、頭の片隅で冷静な自分の呆れたような声が聞こえる気がする。 それでも、抗えないのは本能だから。今はそういうことにしておきたい。 月瀬の片腿に乗り上げるようにベッドの上に肘をついて、顔をうずめて。 「……ふ……っン……」 どうしても月瀬だと思うと熱心に奉仕してしまう。 月瀬の部屋で、月瀬のベッドの上で、こんなことを。 想いが透けて見えて気持ち悪いと思われていないだろうかと不安で見上げた先の表情が艶っぽくて、どきりとして慌てて目をそらした。 思考を振り切るように裏筋をねっとりと舐め上げ、先端に辿り着くとそこにも丁寧に舌を這わせる。 頬張ってしまうともう我慢が出来なくなって、浅ましく求めた。 「…満足、できたか?」 声とともにそっと頭を撫でられ、腹が満たされてぼうっとしていたのに気づき、慌てて身を起こした。 「す、みません…俺、その、なんか、すぐこんな…」 なんと謝っていいかわからずしどろもどろになる。 頭の方は正気に戻ったと思うのに、何故か体は熱いままで、ドキドキが収まらない。 これは、乙女的なトキメキではない、アレだ。 そんな気分になるとアレになる生理現象だ。 やや前傾したまま思わずベッドの上をじりっと後ずさるのを、月瀬は見逃さなかった。 「あ、あの、俺ちょっとトイレ……に、って、ちょっ…月瀬さん?」 ぐっと引き寄せられて硬直した隙に月瀬の手がルームウェアのパンツにのびる。 突っ込まれた手が誤魔化しようのないくらい反応したものを握り、驚きとこみ上げる快感に思わず目前の月瀬に縋った。 「な、なにして…っそん、な、……あ……!」 他人にこんなことをされたことがないどころか、自慰すらもごくまれにしかしないそこは摩擦に弱く、試すように触られた程度でびくびくと反応を返す。 何なら必要がないから退化しているんじゃないかとすら思っていたのに、何で今、というかこの展開は一体何なのか。 「や、…待……っ、つきせさ…っあ、あっ」 混乱と慣れぬ身に過ぎたる快感に翻弄され、、真稀はあっけなく月瀬の手を汚した。 「は………っ、はぁ………、あ」 興味深げな視線を感じて急激に頭が冷えた。 「ご、ごごごめんなさい……っティ、ティシュ…!いや、手を洗っ……!ど、どこか汚してないですよね俺…!?」 辺りを見回して発見したティッシュを引っこ抜いて押し付けると、月瀬の肩が震えている。 「ふ……」 「つ、きせさん…?」 「はは、ははははは…!」 やってしまったのか俺。と肝を冷やしたのに、突然の爆笑に心底驚く。 「ど、どうし……」 「いや、君があんまり慌てているから…」 「え…?だって」 ここで慌てなくていつ慌てるのかという事態だ。 訪れた際に「粗相をしないように」とは思ったがまさか本当にやってしまうとは。 だが、月瀬に怒った様子や呆れた様子はなく、…まあそもそも彼の方から仕掛けてきたことではあるのだが……。 本当に、何故こんなことに、と、濡れた下着が張り付くのを情けなく感じながら、笑う月瀬を前に眉を下げて途方に暮れる。 「…そんなに笑わなくても」 「…すまない、少し意外というか…君はあまり取り乱したところを見せないから新鮮だった」 「そ、そんなことは…ないと思いますが」 ここのところは会うたびに月瀬の前で醜態をさらしてばかりのような。 新鮮といえばこんなに笑う月瀬の方がよっぽど珍しいのではないかと思う。 「と、とにかく手は洗った方がいいです」 「ふむ、私もシャワーを浴びてそろそろ寝るかな」 「バスルームは先に…少しの間でいいのでお借りできると助かります…」 「一緒に入るか?」 「先に!お借りします!」 明らかにからかっているとわかる言葉に、それでも過剰に反応してしまった熱い頬がいたたまれなくて、真稀は寝室を逃げ出した。 バスルームに逃げ込むと、閉めた扉を背にしてずるずると座り込んで頭を抱える。 「…………………無理」 あんなに笑うところとか、ちらりとのぞかせた悪戯っぽく目を細めたちょっと悪い顔も、こんな事態になった理由とかこれからのこととか、直近で顔を合わせたら気まずくてどうしようとか、何もかもがキャパシティを超えていて頭が爆発しそうだ。 好きになるばかりで、つらい。 更に下着を洗わなければならないといういたたまれなさすぎる事態に、真稀はがっくりと項垂れたのだった。

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