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第8話 水音
ドナが帰ってきたのは、陽も落ちきった夜だった。部屋を覗き込んだドナは、朝よりも強くなっているシルヴィオの匂いに鼻を塞ぎながら部屋に入る。ベッドの上にはありったけのドナの服が下着もまとめて山になっているが、これはオメガの巣篭もりというやつだろう。シルヴィオの匂いはその中からする。ドナはそっと服の山を崩した。
食事をとる余裕もなく、ずっと身体を慰めていたシルヴィオは自らの欲でべったりと身体を汚し、裸の状態で眠っていた。
嗚呼、今すぐ食べてしまいたい。でも駄目だ。我慢しなければ。
犬は、雌の発情の匂いにあてられて交尾する生き物。犬の獣人であるドナもまた、シルヴィオが放つオメガのフェロモンに毎度噛み付いて、孕ませてしまいたいと思っている。我慢できているのは偏にシルヴィオに失望されたくないから。
匂いにあてられてしまうから、早く離れなければ。腹も減っているだろう、ドナはシルヴィオを揺り起こす。
「シル、シルヴィオ。起きて」
「んん……」
「お腹空いたでしょ。下にご飯作って置いといたのに手つけてなかったし、食べてないんだろ?」
「……たべ、ぅ」
長い睫毛の間から蒼い瞳がぼんやりとドナを見上げる。ドナは山になっている中から適当に汚れていない1着を手にし、シルヴィオに渡した。
「先にお風呂入ろっか。これじゃご飯食べられないでしょ」
汚れてしまった身体はシーツで包み、服を手にしたシルヴィオを抱き上げ部屋から出る。初めて会った頃から数えてもう半年近く経っているが、シルヴィオが発情期に入ったのなんて初めて見た。ベータとして暮らしていれていたのも発情期が訪れなかったから。つまり、今日が初めて?
身体に腕を絡ませてくる誘惑から逃れ、ドナはシルヴィオを浴室に置いてある椅子に下ろした。まだ寝惚けているのか、正常な判断ができていないシルヴィオは腕を掴み、肉球を齧ってくる。
「痛いよ、やめて」
「たべる」
「俺は食べ物じゃないよー。シャワー出すね、身体洗える?」
洗えなくとも手伝える気はしないが一応聞く。シーツで汚れを拭い取り、ふるふると首を横に振るその身体をバスタブに移動させた。
触れて、楽にしてしまうことは何よりも簡単だ。でも、そうして今発情期で苦しんでいるところは救えても実際には抱かれたくなかったなんて思われてしまうかもしれない。離れられたくないから、シルヴィオが幾ら誘ってきても、正気を保っているのかが気になり乗り気にはなれなかった。
カーテンも閉めてしまうと、シルヴィオは大人しく自ら身体を洗い始めたようだ。柔らかいブラシで肌を撫でる音がする。無理をしたが、風呂がある家を契約できてよかった。自分1人なら銭湯で十分だが、大事なオメガと共に暮らすのならそれだけは外せなかった。
暫く浴室のすぐそばで待っていると、小さくだが名前を呼ばれた。身体が綺麗になったのかと覗き込むと、シルヴィオが身を乗り出していた。
白い肌が濡れ、黒髪から水滴が滴る。恋人のあられもない姿にドナはまた両手で顔を隠した。
「見てないよ!」
「……タオル、取ってくれないか?」
ちゃんと目も覚めたのだろう、シルヴィオの呆れたような平静な声にドナは慌てて顔を背けながらタオルを渡す。
ここまで運んだのだから、裸を見るのなんて今更だろうと言われるのはわかっている。それでも、眠っている時の身体と、起きて動いている身体では違う。
水気を纏った身体なんて、そんな刺激の強いもの見られるはずがないだろう。背を向けて目を両手で塞いでいるその背後で床が濡れているのだろう水音は止まらず、タオルで水気をとる音まで聞こえる。耳も閉じてしまいたい。そんなドナの背にそっと手が触れられた。
「服、渡してくれ」
片腕に引っ掛けるように持っていた服がしゅるりと引かれた。少しすると、腕を引かれる。
「意気地なし」
「俺には刺激が強すぎるんだよ……」
言うだけ言ってリビングに向かうその背を追いながら、ドナは泣き言を漏らした。
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