6 / 28

3-2

子どもの笑い声が聞こえる。 枕に顔を埋めて眠っていた狭霧は、カーテンの隙間から暖かな日差しが細く差し込む中、そっと目を覚ました。 ああ、今日は土曜日か……。 アパート前を去り行く笑い声にそう思い至り、狭霧は大きなため息をつく。 あどけない声以外にも彼の耳は別の音を聞き取っていた。 キッチンへのドアが開かれていて、そこから何やらフライパンで炒め物をこしらえる物音がしている。 香辛料の香りが鼻をくすぐり、狭霧は優れない気分とは裏腹にやたらと空腹感を抱いた。 昨日は床の上であのまま眠ってしまったような気がする。 自力でベッドに移動した覚えはない。 じゃあ楓が俺を? 狭霧が緩慢な動作で上体を起こすと、気配が伝わったのか、ドアの向こうに真夜中の来訪者が現れた。 「ああ、起きたか」 当然、昨日と同じ服装である楓は、ベッドの上で覚醒し切れずにぼんやりしている狭霧に早口で言った。 「残ってた飯と冷蔵庫のモン使わせてもらった。お前の分も作ったから食えよ」 言い終えるなり彼は顔を引っ込めた。 ろくな対応ができなかった狭霧は忙しなく瞬きし、部屋のほぼ中央に置かれたテーブル上の時計を見た。 正午に近い。 普段の起床時間を大幅に過ぎていて驚かされた。 「あ」 顔を洗おうと起き上がり、何気なく視界に入ったダストボックスの中身に赤面した。 ティッシュの嵩が増している。 下肢に服を着せてベッドへ運んでくれた彼の男は白濁を拭う処理も自ら進んでしてくれたらしい。 「--ちゃんと自炊してるみたいだな」 狭霧が顔を洗っている間、楓は大雑把に皿に盛りつけた炒飯をテーブルに乗せていた。 買った覚えのない鶏肉や長葱が乗っていて、スパイスの効いた香りが部屋中に立ち込めている。 「賞味期限切れのやつもあったけどな」 オリーブ色のカーテンは全開にされていた。 楓は日の当たる窓に寄りかかって座っている。 邪魔なくらい長い足は窮屈そうに胡坐を組んで、大きな手は一枚の皿を空中で難なく安定させていた。 すでに皿の半分近くの炒飯が綺麗に片づけられている。 楓の斜め向かいに腰を下ろした狭霧は、目線を浮遊させながらも遠慮がちにもう一枚の皿を取った。 「何か聞いておきたいことあるか」 その言葉に吸い寄せられるように狭霧は楓を見、目の中の物憂げな光を一層強め、再び手元に視線を落とした。 「……どうして……」 どうして昔と変わったのか。 気恥ずかしい問いかけを咄嗟に喉の奥へと追いやって、狭霧は別の質問を口にした。 「突然、あんな時間に?」 「急に思い立って」 楓はバルコニーに目線を転じて口の中のものを一息に呑み込んだ。 「無性に知りたくなった。お前が今どうしてるのか」 「一体どうやってここが……?」 「家族に電話で聞いた。そしたら、昔みたいにまた家に遊びに来てくれ、だと」 確かに小学校の低学年まで楓は狭霧の家に遊びに来ていた。 当然ながら自分の両親と妹も幼馴染みを知っている。 何も聞かされていない彼らは「楓君はどうしてるの」と尋ね、狭霧はその度に返事を言い淀んだものだった。 「驚かせたいから本人には秘密にしてくれって頼んだ。お前の母親、約束守ってくれたんだな」 財布しか所持していないところを見ると、どこかに荷物を預けているのだろうか。 だけど本当に卒業式以来だ。 引っ越した後は一度の音沙汰もなく、高校の間は思い出すのも嫌だったけれど。 臆しながらも探りを入れる視線に気づいたのか、楓は、今までの経歴を掻い摘んで狭霧に聞かせた。 「高校には行かなかった。一年くらいバイト掛け持ちして金貯めて、親父から離れた。それから厨房の皿洗いとか日雇いの肉体労働やったり、知り合いの伝手でウェイターやったり、とにかくいろいろやった」 「……そうなのか」 「お前は真面目な大学生っぽいな」 楓は早々と皿の上を空にすると今まで自分が寄りかかっていた窓を開き、空気の淀んでいた部屋に清々しい風を入れた。 狭霧が実家を出て以来住み続けているこのアパートは大学から程々に近い団地内に建っている。 四階建ての1K、特に不便もない住まいだった。 「土曜なんだな、道理で子供が多いわけだ」 立ち上がった楓がわざわざバルコニーに出、アパートの周辺を見渡している。 まだ食べ終えていない狭霧はシャツを盛り上げる肩甲骨が何だか動物的な背中を、そして鋭さを孕んだ横顔を見やった。 中学時代、幼さの見て取れるやや丸みを帯びていた輪郭が、今は贅肉が削ぎ落されてシャープな線を連ねていた。 欠伸を噛み殺したような口元は気怠そうな笑みをそこはかとなく刻んでいた。 「しばらく泊めてくれるか」 いきなり彼が振り返り、狭霧は十分に咀嚼していなかったものを嚥下した。 「どうして」 気怠そうな笑みが傲慢な嘲笑へと変貌を遂げる。 狭霧は慌てて目を逸らし、返事を言い渋った。 「そんな、いきなり……急すぎる。こっちにも都合ってものがあるんだ。月曜に提出するレポートだって書かなきゃならないし」 「別にレポートくらい書かせてやる」 楓は窓を開け放したまま狭霧の斜め向かいに戻ってくると、テーブルに頬杖を突いて上目遣いに濃厚な視線を寄越してきた。 「最低限の習慣、飯食ったり睡眠とったりするのは仕方ないな。レポート作成もまぁ大目に見てやるか。だけど他の時間は」 そこで台詞を切った楓に察しのいい狭霧は背筋を戦慄かせた。 冗談じゃないというのは笑っていない彼の双眸で容易に理解できた。

ともだちにシェアしよう!